大人っぽさという概念がある。子供の頃に見ていた大人はなんとなく自分とは地続きではない感じがしていたが、成人した今となっては子供との違いがわからない。ただ成人年齢に達した人間が大人というレッテルを貼られているだけで、大人という実態が存在するわけではないのだ。
実態は無いが、人類の共有している”ぽさ”はあるように思える。見た目が大人っぽいとか、立ち振舞いが大人っぽいとか。教養が深いことも要素として挙げられる。ざっくりまとめるとヴィンテージ感のことを大人っぽいと言っているような気がする。ヴィンテージの定義を調べてみると、(1)古くて価値があり、(2)完成度が高いものを指している。見た目や立ち振舞いは(1)、教養の深さは(2)に該当しそうだ。しかしここで価値とは何かを考えてみると、やはり完成度の高さということになりそう。生き物のライフサイクルを考えると成人年齢ぐらいが見た目のピークで、要は完成される時期と言える。それ以降は腐っていく一方である。
植物の完成像の共通認識を得ているように人間の完成像の共通認識があるのなら、それに向かうことが大人になることと言えそう。とはいえ植物ほどライフサイクルが短くないため個体差が大きいのが人間である。植物は完成したとしても個体差について何かしらの基準で選別される。人間もそのような基準で選別され、大人っぽいか大人っぽくないかを論じているように思う。結局、「人間としての完成度が高ければ大人である」というところに戻ってくるのだが、その完成度を判断するのは上位の存在であるべきだと思う。野菜に野菜の完成度は分からない。他人を見て大人っぽいとか大人っぽくないとか言っている人間は上から目線のクソ野郎ってことです。でも子供から見て大人っぽいと思うこともあるのが面白いところで、下にいる自分との比較で完成度が高いと認識することはできる。つまり真の大人とは、はさみうちの原理で証明された者のことである。