自覚しながらも直せていない会話中の癖がある。
聞かれたWhyの質問に対して、思いではなく経緯で答えてしまうこと。
自分「最近この本読んだんだよね」
相手「へぇ〜!それを読もうと思ったのはどうして?」(Whyの質問)
自分「なんかでこの本を知って図書館で予約してたんだけど、それが半年ぶりに来たから借りて読んでみたの。」
いや、経緯とかどうでもよくて!!!その本にどうして興味を持ったとか、どんな本が好きなの?とかが質問の意図のはずなのに!
毎回話した後に「またやっちゃったな〜🙄」って反省するんだけど、反射的に話をすると経緯を話してしまうんだよな。
いつもそこで止まって同じ繰り返しなので、
「これだけ反省しながらもついつい経緯を話してしまうのは、何がそうさせているのだろうか?」
という問いを元に、もう一歩踏み込んでみる。
まず、経緯を話すことがいいと思っているパターンが想定できるが、これは違う。自分が相手に聞くとしたら、経緯よりも想いを聞きたいなと思うからだ。となると、想いを話すことを無意識的に避けていると言うことだろうか?
思い返すと、昔から自分の想いを語るのはそんなに得意じゃない方だった。さっと何が楽しいのかとか何が好きなのかを発することが憚られる感覚があって、ちょっと考え込んでしまうことがよくある。
この前なんか、
「最後の晩餐に何が食べたい?」
と言うなんでもない質問に対して回答が全く浮かばずに自分が自分で焦るみたいなことがあったくらい。
自分は「これを言ったらどうなるんだろう?」という想定をいつもしているなと思う。最後の晩餐の時も、全然思いつかなくて「好きなケーキはモンブランだから、モンブランかな?」って思って言おうと思ったんだけど、
「いや、別に最後の日にどうしても食べたいほど好きじゃないかも?」
「モンブランって一口に言ってもどこのどういうモンブランが好きなの?」
「モンブランのこと言うて全然詳しくないぞ?話題ここに広げられたら困る!?」
「自分はそんなに甘いものが好きっていう人間じゃないぞ?むしろ好みは慎ましい食生活なのだけど。」
「そもそもケーキで最後は贅沢しようっていう発想はどうなんだ?」
とか、無限に瑣末なことを考えてしまう。なんでこんなことを考えるのだろうと思うと、「主観的好き嫌い発言は共感を生むものでもあり、分断を生むものでもある」と考えているからかもしれない。
好き/嫌いというのは論理を超えた感覚の話。とてもその人らしさが表出する。「この人は自分に近い感覚を持っているか?」というジャッジを受けているのかもしれないと勝手に意識してしまう。だからこそこの好き嫌い発言が、自分をどんな存在としてメッセージングするだろうか?ということをいつも以上に気にしてしまう、という流れだ。
割とそうかもと思いながらも、冷静に眺めてみると大したことない話題をいちいち気にしすぎだな〜って思うよね。言葉一つで人を好きになることも嫌いになることもほぼないし、そもそもそんなみんな気にしていないし、自分らしさとは言葉ではなく仕草や雰囲気に宿るものだとも思うし。
こんな細かいことまで変に考えてしまうことに情けなくもありつつ、ある意味で、過剰はほどにひとつ一つの会話を大切にしようとしているのかもとも思えてきて「真面目だな〜」と受け止めてあげたい気持ちにもなってる🤲
いきなり全てを話す必要はないけど、ちょっとずつでも好き嫌いを話しても絶対大丈夫。少しずつでいいから、気が向いた時に言葉にしてみよう。