「付き合ってください...!!」
脈々と受け継がれてきている、恋人になるための儀式。付き合うということは、当たり前のようにたくさんの人が求めて、実践しているけれど、そもそもなぜ私たちは「付き合う」のだろうか?
現代において、「自由って良いことだよね」という考え方が一般的に受け入れられているように思う。恋愛においても自由恋愛を選ぶ人が大多数であるし、一夜限りなんて言葉もあるように、気楽な関係を望む感覚も、人の心には存在していることは間違いない。
しかし、付き合うという行為は、自由に逆行した行為であるように思う。たくさんの人の中から恋人を1人選び、関係を固定化させるということだからだ。
ただ、この自由が良しとされる現代において、付き合うという文化が廃れていない以上、付き合うという関係性には何らか良いことがあるはずである。たくさんの良さがあるのだと思うが、その一つに、「不自由を楽しむことができる」という側面があるのではないか?
改めて、「あなたは自由であることを望みますか?」と問われたら、ほとんどの人がYESと答えるだろう。古くは封建制度からの自由、宗教的迫害からの自由、奴隷制度からの自由など、人類が自由を求めてきた歴史は語るまでもないだろう。恋愛についても、時代の流れとともに自由になってきている。昔は恋愛という概念は薄く、結婚は家と家の契りであったし、自由恋愛が一般化したのは日本で言えばつい100年ほど前のことだ。現代は情報化社会の発展により、自由に情報にアクセスし、自由に人と繋がることが可能な時代である。マッチングアプリの台頭は、世界中から好みの人を探して恋愛できるという、自由さの象徴と言って良いだろう。人は自由を求め、自由を謳歌できる人生を良しとする。
私も基本的に自由であることが良いと感じるし、できる限り自由でありたいと思う。しかし、自由であるということには弊害もあると考えている。人間関係における自由さは、いい意味で言えば気軽であり、悪い意味で言えば不安定であると言えるのかもしれない。
あなたは今、小・中学校の友人と何人繋がっているだろうか?
当時は何人もの友達がいたはずだが、今では数えるほど、もしくは1人も最近連絡取れていないなんて人もいるだろう。友人関係のような気軽な関係は、同じ小学校に通う、同じクラスで過ごす、同じ部活で活動するなど、所属をはじめとする縛りによって自然と維持される。しかし卒業と同時に、私たちは一緒に過ごすという縛りから解放され、自由となる。それぞれの人生をそれぞれが選び、人生を歩む中でそれぞれの成長する。そして、自分の日々に夢中になっているうちに私たちはだんだんと疎遠になっていく。久しぶりに同窓会であったとしても、今となっては接点が少なくなってしまったために、長期的な関係を再開することは基本的にはないだろう。
自由であるとは、関係を築く人を自由に選べることでもあり、同時に、関係を続けるも続けないも自由ということも含む。当然、私たちは長い人生を生きる中で全ての人間関係を続けていくことは不可能である。そのため、たくさんの人間関係の中に生きていく私たちは、自由で気軽な関係をベースにするのは自然なことだ。当然関係の長期的な安定性を犠牲になるが、自らの成長や変化に合わせて関わる人を変え、人間関係の心地よさを保っていける。
そんな目まぐるしい変化の中でも、長期的に続いていく関係があるとしたらどな関係だろうか?自らの変化や成長に合わせて、互いにたまたま必要であり続ける存在の人、もしくは、家族、幼馴染、親友など、切ってもきれないような特別な関係性が続く人たちだろう。前者は利害関係が一致し続ける人、後者は利害を超えた存在になった人たちという分類をしても良いだろう。自由という文脈でいうなら、前者も後者も「誰でもいいわけではなく、あなたが良い」という関係であり、自由に、気軽に、関係を切り離せない状態になっていると言えるだろう。そのため、この関係は悪い意味ではなく、フラットな意味で"不自由"である。
話を戻していくと、「付き合う」ということは、後者の利害を超えた存在を目指すことの約束であり、人間関係の自由さ、つまりは関係の代替性を手放す宣言と言えるだろう。
この約束は長期的に関係を深めることを手助けしてくれる。わかりやすいのは、喧嘩した時や価値観の違いに向き合うと言った瞬間だ。違いに向き合うことは基本的にカロリーの高い営みであるが、ここで「面倒だからこの関係をやめてしまおう」「替えの人間関係を探そう」と、自由さを振りかざすことは、利害を超えた特別な関係を目指すという世界線とは相性が悪い。長期的に関係を続ける中でストレスのかかる瞬間は幾度となく訪れる。その時に、この関係が簡単に途絶えてしまうという恐怖を排除し、腹を割って向き合う勇気を与えてくれるのは、長期的な関係を約束することの大きな価値ではないかを考えている。自由さを手放すことで生まれた不自由さが、関係を深める余白を与えてくれる。付き合うとは、実によくできた文化だ。
余談だが、初対面の相手をどれだけ信頼するか?ということは明確に文化差があることが研究でわかっており、日米比較では、日本の方が信頼が低く、アメリカでは基本的に高いという結果のようだ。「付き合ってください」という儀式は日本やアジア圏特有のものだが、これは他者への信頼感が弱い文化の中で積極的に関係を深めていくための工夫だと言えるかもしれない。
自由とは、常に不安定さとセットなのである。安心感のある長期的な関係を育みたいのであれば、あえて不自由さを選ぶことも素敵なことであろう。自由であることが全てよしということではなく、場合によっては不自由も悪くないという側面も忘れずにいたい。