いくつかの外国語を学んだ。必要に追われ、耳をそばだて、冷や汗と赤面をいくつも乗り越え向き合った言語だけが、それなりにものになった。英語でもスペイン語でも中国語でもないのが悔やまれる。イタリア語だ。
渡仏や渡独という言葉は変換されたが、「渡伊」はどうも一般的な表現ではないようだ。素直に「イタリアに行く / 行った」と書くしかない。
過去の一時期、多少の期間、イタリアに行き、住んでいた。最初の数カ月間は、語学クラスが必修だった。自分同様、全然イタリア語が上達しないアメリカンとオーストラリアンが最初の友だちになったが、彼らは結局英語でクラス中の学生たちと話せるため、気付けばいろいろな意味で後れをとっていた。ただ時は過ぎる。"L'italiano è come la musica. Che bella!(イタリア語は音楽みたい。なんて美しいの!)"などとうっとり口にする先生の顔を思い出しては恨めしい思いを募らせる日々が、延々とつづいている。
ため息がでる。
どこが美しいのか、ただただうるさいだけだ。イタリア人め。いついかなるときでもしゃべらずにはいられない。バスの中、電車の中でさえ、携帯片手に「もしもーし!」とやっている。telefonicamenteなんて馬鹿げた副詞が存在するのはイタリア語だけだろう。ああもう、猛スピードで母音がゴロゴロ鳴っている。怒られているのか、ほめられているのか、喜んでいるのか、びっくりしているのか、まったく理解できない。いや、待て、やつらもしかしたらアジア人を嘲っているかもしれないぞ。
ああ、どこか静かなところはないのだろうか。
そして留学生活前半は、主に教会の片隅にうずくまって過ごした。
あの頃はバロックもルネサンスも好きになれずに近所の、あるいはテルミニやその付近のバシリカばかりにいっていたが(ローマにはロマネスク期のままの聖堂は少ない、ゴシックも数えるほどしかない)、イタリア人とイタリア語に敗北しながら眺める内陣は、言語の壁も時空の隔たりもこえて、いつでも静謐な光を宿していた。修道院が附設されている教会で回廊を見学したりしていると、黒衣の修道士とすれちがうこともあった。沈黙の掟を守る彼らは、東方からの見慣れぬ客人にさえ温かい微笑を向けて音もなく去っていく。つまりこの瞬間、それまで文字でしか知らなかった聖ベネディクトの『戒律』が、生きたかたちで自分の中にとびこんできたのだ。心が打たれた。そしてここに――教会ではなくイタリアに、きてよかったと思った。
だから後半は、ローマを飛び出しての教会めぐりに費やされた。週末のほとんどは下宿先に帰らず、ラツィオ、トスカーナ、ウンブリアを中心に、各駅停車での小さい旅行をくりかえした。いちばんよかったところ?そりゃもう、全部だよ。こんな具合で底抜けに楽しかったが、日本では考えられないようなトラブルも多かった。しかし逃げるわけにはいかない。その先に教会があるのだから。
致し方なく困難にかじりついていると、望むと望まないとを問わず、気付けば無数に学んでいる。たとえば、あいまいな笑みを浮かべて黙っていれば、「意見をもたない、妙なやつ」という烙印を押されること。どんな拙い表現でも苦心して話しかければ、だいぶ親切に教えてもらえること(ただし教えてもらったことが正解というわけでもない……あーそれならあのバス停に行けよって言われたけどちがったぞ?)。そして言葉は、何かを伝えるためにあること、自分を表現するためにあること。失敗をうずたかく重ねていくうちに、自然と耳も口も表情も身振りも涙も微笑みもついてくること。日本人がそうであるように、自分の国の言葉を話せる外国人が、イタリア人も大好きなこと。
要するに留学時代の自分が敗北していたのは、イタリアにもイタリア人にでもなく、自分自身だったのだ。あいつ、うまくやろうとして、つんとすまして、とんだいけすかねえやつだったなあ…と他人事のように思い起こしながら、仕事の合間、何年かぶりにイタリアへ、ヨーロッパへ行く休暇を思い描いている。