
こんにちは、こんにちは。大阪万博の感想日記を書いておこうと思います。
万博というと、かつては科学技術の最先端が集まる「未来の見本市」でした。でも2025年の大阪万博を歩いてみると、多くの国々はSDGs美学なプレゼンに終始しています。地球温暖化対策!資源循環!海洋保全!などなど。
大切なテーマなのは間違いないけど、未来の最先端のメッセージがそれだけなのかっていうと微妙なとこですよね🤔
考えてみれば、SDGsって2030年までのゴールですよね。万博のテーマ「いのち輝く未来社会のデザイン」で言う「未来」は、たった5年先のことなのか。5年先に達成すべき目標を「未来」と呼ぶなら、その先の30年、50年、100年先はどこで語るの?って思ってしまう。

そんな中で、とくに印象に残った3つのパビリオン、「null²」「フランス館」「ガンダム館」について、個人的に感じたことをまとめておきます。(予約の取れた人気な展示がそれだけとも言います。)
↑なおAIで作成した、この記事の音声概要はこちら。
この3つが面白かったのは、AIと人間の関係性や、私たちのアイデンティティのあり方について、まったく異なるメッセージを放っていたから。記号を捨てるべきか、活用すべきか。そんな対照的な未来像の片鱗が見えたと思います。
null²:「記号の脱ぎ捨て」を促す鏡の部屋

落合陽一氏による、null²(ヌルヌル)は、とても印象的でした。
まず外観からして異質。鏡膜で覆われた動く建築が、自分の姿や周囲の景色を歪めて映し出します。そして館内に入ると、AIが生成した自分のデジタル分身が無限に反射する鏡の空間へ。
これが単なるアート体験ではなかったのは、退出後も考え続けてしまう哲学的な問いを投げかけていたから。
「AGI(人間と同等以上の知的能力を持つAI)が社会に遍在したとき、人間の知的労働はどうなるのか?」
このパビリオンでは、自分の"デジタル分身"が自律的に動き続ける様子を映し出します。鏡に映った無数の「私」は、「本物の私」がいなくても勝手に動き続け、表情を変え、時に変形さえする。
この光景が突きつけるのは、「あなたがあなたの仕事をしなくても、AGIがあなたの代わりをする」というメッセージであり、同時に「だからあなたは解放される」という希望でもあります。
私たちはこれからの時代、固定的な知識やスキルに依存せず、変化する環境に合わせてデータを狩り、即興的に対応する生き方が必要になるのです。
その生き方の鍵として提示されたのが「記号」でした。
「私はエンジニアです」「私はデザイナーです」「私は侍です」
こういった職業的・個人的なアイデンティティは、ここ数百年・数千年程度の近代的な発明なんですよね。人類の歴史のほとんどの期間、人々はそんな風に自分を定義していなかった。
さらに深く考えると、現代の私たちは職業だけでなく、あらゆる「記号」によって自分自身を定義しています。
どんなスマホを使っているか。どんな車に乗っているか。どんな服を着ているか。どんな場所に住んでいるか。どんな飲食店に行くか。こういった選択は、すべて自分が何者であるかを社会に向けて示す「記号」なんですよね。
ガラス張りのパビリオンの中で、私が見ていたのは単なるデジタル分身ではなく、私自身に付与されたすべての記号が剥がれ落ちた後も、存在し続ける「私」の姿だったのかもしれません。
SNSでフォロワー数を気にし。ブランド品を身につけ。肩書きを名刺に刻み。特定の場所に立ち寄ることでアイデンティティを構築する。これらすべてが「記号の消費」であり、AIがコンテンツを無限に生成する世界では、その価値はますます希薄になっていく。
AGIによって「知的労働者」という自己定義が揺らぐとき、私たちは先祖返りをするのでしょうか。
「記号の消費に過ぎない」と自己定義を捨て、より流動的な生き方を模索する。それはある種の「回帰」であると同時に、新たな進化でもある。
自分の名刺に書かれた肩書きがいかに薄っぺらいものか、自分の仕事や収入、購入する物が自己価値の本質ではないこと、そしてそれらの記号に依存せずに生きる強さをどう身につけていくのでしょうか。
もはや職業記号はAIに奪われるかもしれない。でも、そもそも私たちは職業によって自分を定義する必要があるのだろうか?そんな根源的な問いかけが、鏡の部屋には満ちていました。
フランス館:「記号の極致」としてのラグジュアリー

一方、フランス館は対照的なメッセージを放っていました。そのテーマは「Hymn to Love(愛への讃歌)」。
入口では宮﨑駿『もののけ姫』を題材にした壁掛けが出迎え、内部ではLouisVuitton製トランクやDiorのシルエット、ロダンの石膏レプリカが並びます。
とても素晴らしい展示の数々ですが、これは"未来"なのでしょうか?
一見、ただの懐古にも感じますが、フランス館が描く未来は「記号の永続化」にあるのかもしれません。LVMHという「現代社会の記号の権化」とも言えるラグジュアリーブランドは、むしろAIが遍在する世界だからこそ、その価値を増す可能性があります。
AIがあらゆるものを自動生成し、コピーが無限増殖する世界では、「本物」の価値はむしろ高まる。そんなメッセージを感じました。
この考え方は、日本のアニメ・ゲーム文化のように、単なる「商品」を超えた「文化的象徴」としての価値創造です。それは一見すると保守的に思えますが、実は未来に対する強かな戦略なのかもしれません。AIがアートを無限に生成しても、それを収める器は伝統的クラフトマンシップによるものであるべき、という主張に見えてきます。
null²が「記号を手放せ」と促すのに対し、フランス館は「記号を永続化せよ」と語る。この正反対のヴィジョンを体験して、私は「記号の民主化」と「記号の貴族化」という2つの道筋を見た気がしました。
どちらも「AIに記号生成を奪われる時代」への対応なのに、真逆のアプローチ。
現代に生きる多くの先進国の人にとっては、フランス館の提示する「守るべき価値」というメッセージが、安心感を与えられるかもしれません。すべてが流動化する時代にあっても、人間が磨き上げてきたものには固有の価値がある。そう信じたいのが現代人なのでしょうか。
現代社会は「実体なき記号」があふれる世界です。でもフランス館は「記号と実体が再び結びつく瞬間」を取り戻そうとしているようにも見えました。LVの職人技や、ロダンの彫刻といった「本物」の価値は、コピーがあふれる時代だからこそ、新たな輝きを放つのかもしれません。
ガンダム館:ソフトパワーで「0to1」を目指す日本戦略

ガンダム NEXT FUTURE PAVILIONは、日本のソフトパワー戦略を体現していました。
正直CGアニメーション自体は凡庸でしたが、外観の実物大ガンダムから館内の宇宙体験まで、圧倒的な没入感で訪問者を魅了します。これは技術自体よりも、アニメIP自体のパワーです。
そして、宇宙進出というメッセージ自体もありきたりながら、IP活用をして実体経済や科学技術を牽引するというストーリーは、有用なものかもしれません。
従来、ガンダムは「戦争」をテーマにした物語でした。でもこの展示では、宇宙開発や災害救助といった平時の技術革新に焦点が当てられています。これはまさに「記号の転用」の好例ではないでしょうか。
ガンダムという強力な文化記号を、「宇宙開発」「ロボティクス」「災害救助」という社会課題と結びつける。非常にベタではありますが、多くの人を実学へと誘導する仕掛けになっています。
日本が持つ強力なオタク的なソフトパワーを「推進剤」として活用しつつ、その先にある本当の技術革新を目指す。「カルチャー記号」が単なる消費対象ではなく、国家の将来を支える基盤技術への入口になり得る。これは他の先進国にはない日本独自の戦略かもしれません。
アニメを単に消費するだけでなく、その情熱を実用的な創造に転化する方法もあるはず。そのひとつのカタチをガンダム館は示していたように思います。
記号を「捨てる」か「活用する」か
3つのパビリオンを巡って感じたのは、AIと記号をめぐる3つの未来像でした。
null²が示す「記号から自由になる覚悟」
フランス館が守ろうとする「記号の永続価値」
ガンダム館が実験する「記号を推進力に変える回路」
日常的に私たちは「記号」を消費しています。AppleやSupreme、ナイキやポルシェ。こういったブランドを身につけることで、自分というアイデンティティを形成している側面があります。
でも、その「記号」自体がAIによって無限に生成され、模倣される時代が来たとき、私たちはどうするべきなのか。
null²が提案するのは「記号を捨てよ」という道。フランス館は「本物の記号を磨け」という道。そしてガンダム館は「記号をハシゴとして使え」という道。
AIによって記号生成が民主化された世界では、この「記号との距離感」を自分自身で調整できる自由なのではないかと思います。
時にはnull²的に「記号から自由」になり、時にはフランス的に「記号を磨き」、時にはガンダム的に「記号をハシゴ」にする。そんな柔軟さこそが、これからの時代を生き抜くための知恵なのかもしれません。
結局のところ、現代人たちは「記号」から完全に自由になることはできないし、「記号」に完全に支配されることもない。大事なのは、その間を行き来する自由と技術を持つこと。
万博という場に集まった未来の断片から、そんなことを考えさせられた一日でした🥴
