いい小説に出会えたので語りたい 僕にとっていい小説は、まず不快感がきちんとある その上で、少しだけ希望があるものだ それは単なる勧善懲悪でスッキリということではもちろんない 徹頭徹尾しっかり不快でいて、これまた徹頭徹尾ほんのり希望がある
『22歳の扉』はまさしくそういう小説だった いい小説の条件をもう一つ加えるとすれば、ドキドキすることだ なぜなら小説はフィクションだから フィクションは一読して現実ではあり得ないようなことが起き、しかし現実はしばしば奇跡的である 手垢まみれな言葉だと、「事実は小説より奇なり」と言える
現実で起きた奇跡たちは、なぜかしばしば忘られてしまう 思うに、僕たちはたくさんの奇跡の記憶を同時に仕舞い込んでいられるほどに心のキャパシティがないのかもしれない いい小説はドキドキさせてきて、自分の人生で体験した様々な奇跡の記憶と情緒を喚起させる 『22歳の扉』はまさしく18-23歳あたりのたくさんの奇跡の記憶を実現した それは「朔くん」が繰り返し言い聞かせるように語る「場所にしか人を救えない」がいい味を出してきた 記憶の周縁にある場所の記憶が、ゆっくりと沸騰する時の気泡のように立ち現れる
少し戻ると、なぜ小説を読んでわざわざ不快にならねばならないのか 小説は「回復と成長」において百薬の長である ちくちくと、ざわざわとするところに凍結された傷つきへの扉がある ではなぜ希望が必要なのか 傷をむき出しするだけの荒治療では、僕たちは成長はおろか回復もままならない
『22歳の扉』の登場人物は、みな傷ついていた 他の小説の登場人物がそうであるように、そして現実に生きる僕たちがそうであるように その傷つき方は見覚えもあり、聞き覚えもあり、身に覚えもある 野宮さんも、夷川さんも、北垣も、三井さんも、日岡さんも、柏さんだって、大桂さんだってそうだ そして全員、現実の誰かに当てはめられないのがすばらしい テキストの中で、生きている証拠だ
傷つきとの向き合い方は様々だ 誰も正解がわからない ただ一つ言えることは、どんな傷つきであれそれを抱えて生きていかざるを得ない もう少し丁寧に言うと、傷ついたという事実はなかったことにできない それでもどう生きていくのかというところに、いや、生きていくということ自体に真実がある そんな勇気が湧いてくる、素敵な読書体験であった(完)