世界は広いが、私は速い

s81
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Twitterで鬱病の方の体験談を読んだ。「断絶」というワードが印象的だった。印象的、というか、引っかかるというか、思い当たる節があるというか……。

その話をここで詳しく書こうとしてもニュアンスが失われてしまうと思うので、ほどほどにさせてもらう。そもそもその方の話と、私が今から書く話は全然関係ないものだ。私は単に単語に反応して、自らの思考に勝手に入っていくだけだ。なので、私が反応した部分だけ簡潔に述べる。

世界と断絶する感覚があるのだという。

「移動距離が伸びると、思考力が上がる」という言説について考えてきた。私としては、「移動距離が伸びると」でもないし、「思考力が上がる」というわけでもない、と感じている。

「どこかに行けるという可能性が、無意識の制約を取り払う」のではないかと思っている。重ねた移動距離は、どこかに行けるという可能性になるし、無意識の制約をなくした先で、思考にいい影響があるかもしれないとも思う。

では、それはなぜか。どこかに行けることが、制約を取り払うことになるのは、なぜか。その理由の一端が、断絶というワードにあると思った。

世界は広く、広すぎる。広すぎるそれだけで隔たっていて、私と世界のほとんどは一生関わることすらない。ないのだ。私が関われることなんて、これっぽっちもない。私と世界は断絶している。それは、思う以上に絶望的なことなのかもしれない。そこに存在の確証がないから。

働きかけたら反応が返ってきて欲しいというのは、人間の原始的な欲求に思える。スイッチを押したら機械が動いて欲しいというだけでなくて、カチッと音が鳴ってスイッチが沈み込んで欲しいし、そうでなくとも押し込んだ指先にかえる感触があって欲しい。そうでなくては存在の確証がない。けれど働きかけたら反応を返すのなんて身の回りのほんの一部のことだけだ。世界のほとんどは、私の存在を確証しない。世界のほとんどと、私は断絶している。私はそのことを知っている。知っていて、けれど普段は、そんなこと気にもとめない。気にもとめないけれど、断絶はたしかにそこにある。そこにあって、知らず知らず、私はそれに囚われている。

そして、知らず知らずに超えていた。私が超えたのは断絶だったと、超えてから気がついた。移動とは、断絶の超え方のひとつなのだ。距離という単純な、そして圧倒的な断絶を、けれど実際に超えられる。そう、身をもって知る。

世界は広く、越え得るのはそのほんの一部に過ぎない。全然届かない。箱根に行って帰っただけで寝込んでしまうのに、世界中など一生かかっても届きはしない。それに、距離とはあまたの断絶の一種に過ぎない。全然、届かないものばかりだ。すぐそばにあるものに、一生関わらないことなど珍しくもなんともない。あらゆるものが遠い。触れ合っても肌が隔てる。距て離れると書いて、0ミリメートルすら距離だ。星座を結んでも真空が隔て、暗い星は星座にすらなれない。

でも私は断絶を、少なくともその一端を、こえた。

私は、制約を取り払うことができる。私が関係し得る世界は、私が広げることができる。私にはその力がある。スロットルを握る手に、手応えがかえる。

希望の手応えだ。

@s81
言葉は膚、わたしとすべてを隔てても、あなたに触れるよすがであれ。