あるよ

s81
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ある夜。フェリーのエコノミークラスは雑魚寝で、使えるのは座布団一枚で、寝られる気がしなかった。誰も彼も寝静まる大部屋から抜け出した。親にも言わずに。甲板に出ると、曇って月も星もなかった。海は暗すぎて、船の灯りは明るすぎた。そのはざまで、鉄の甲板の上に一人だった。夏なのに寒かった。薄手の、化繊のシャツ一枚では頼りなかった。そのままうろついていると、ガラス越しに明るい部屋を見つけた。おじちゃんたちが海を見ながら酒盛りをしていた。私を見つけて驚くおじちゃんに、ガラス越しにじゃんけんを仕掛けた。勝った。船内に戻り、おじちゃんたちのいた部屋を探し当てる。おじちゃんたちはほっとしたように、「自殺者かと思った」と言った。「眠れなかったから探検してた」とかなんとか返事をした。

ある夜。皆既月食のニュースで持ちきりだった日の夜。曇っていた。空を厚く雲が覆って、なんにも見えないような感じだった。冬か、秋か、初春か、とにかく寒い時期だった。帰路、着こんでもこもこの姿で原付を走らせる。赤信号を待つ間、道沿いの民家からパジャマ姿の少年が飛び出してきた。半袖だった。寒がる様子もなく空を見上げ、きょろきょろと月を探していた。曇りだった。すぐに家に入っていった。私は空を気にしながら、まっすぐ家に帰った。急いで夕飯を食べたら、もう一度原付にまたがった。一か八かで月食を見に行こうと思った。海までいけば、ひょっとしたら雲が切れてくれるのではないかと思っていた。海岸に着くと人がやたらと多かった。みんな空を気にしていた。曇りだった。月蝕は今日はもう、どうやったって見られないらしかった。けれど人々はまだ帰らないようだった。皆んなが暗い、何もない海と空を眺めていた。何もないままに、一緒に来た人と談笑するとか、海風を浴びるとかしていた。私はチョコモナカジャンボを買って食べた。体が冷えた。

ある夜。ひそかな楽しみがあった。仕事を終えて原付を走らせ、普段と違う道を選ぶ。その道を進んでも自宅には戻れないから、完全に寄り道だ。といっても、自宅の近くなのだが。それに、こうして遊ぶのは冬の満月の夜だけだ。帰宅時間と、陽の長さと、月の運行がうまく噛み合うようになる。お目当ては坂だ。広くて、なのに車通りも人通りもめったにない道路。気を付けつつ進む。街灯の灯りはまばらで、民家もない。暗い道。ゆるやかな上り坂の向こう、一点透視の延長線上。私の進む先には月がある。月に向かって、スロットルを開ける。身を切る冷たさの夜風。それを身体できって走る。スピードを上げても、月は遠い。

ある夜。知らない街にいた。ひとり旅ははじめてだった。私は方向音痴だ。その上街は入り組んでいた。新しい部分と旧い部分が無造作に入り乱れていて、何本もの糸くずを絡めたみたいな感じだった。地図を見て歩いても行き止まりに阻まれた。何度も。ホテルに戻る道でも、そのようにして迷っていた。チェックインしてから一度出て、一度歩いたはずの道だ。けど、あたりは暗くなって様変わりしていた。本当に道がわからなかった。スマートフォンの電池は切れていて、充電器もホテルにおいてきてしまっていた。その上薄着だった。昼はあたたかくて上着を置いていったのに、夜になると急に寒かった。凍えていた。歩いたら温まるかと思ったのにちっともその様子はなかった。おまけに腹も減っていた。昼ごはんは早めに済ませてしまっていて、結構時間が経っていた。その割に私は楽天的だった。歩けばそのうちどこかには出るだろうみたいな気持ちがあった。こんなだから方向音痴なのかもしれないと思った。でも本当に、見覚えのある道に出た。ホテルが見えた。ほっとした。自分が憔悴していたことに気がついた。

ある夜。雨が降っていた。静かな、春の霧雨だった。暖色の街灯に照らされて、無数の銀の糸が浮かび上がっていた。なんだかとても柔らかくて気持ちがよさそうだった。雨具は一式持っていた。着込めばひとつも濡れずに済む、上下セットのレインウェアだ。けど、使わないことにした。そのまま原付にまたがって帰路についた。春といえど初春のことで、夜だからけっこう冷えていた。ふつうに寒かった。風邪を引くだろうなと思いながら原付を走らせた。帰り道は30分ほどかかる。それだけあれば十分に冷え込む。けど、途中で雨具を使うこともしなかった。霧雨は、見た目の通り、ほんとうに気持ちのいいものだった。全身をさらさら撫でていった。きれいな夜だった。路面の濡れたのも、街灯の滲むのもきれいだった。よく見ようとしてシールドも上げてしまうと、霧雨の細かい細かい粒がめがねにびっしりくっついた。何にも見えない。それは流石にあぶないのでやめた。でも、シールド越しでも良かった。じゅうぶんにきれいだった。

@s81
言葉は膚、わたしとすべてを隔てても、あなたに触れるよすがであれ。