やはり、というか。絵を描けるようになったから、字を書けなくなったのかもしれない。
絵は元々描いていた。が、そうではない。頭の中の光景に、手からの出力が追いついていなかった。そしていま、それは追いすがりつつある。
私は思考のマグロだ。いつも常に考え続けている。なにかを。終わらない連想、制御できない思考が、目の前の現実と無関係に奔る。満ちる。溢れんばかりに。そしてそれを吐き出す方法は、どうやら限られているようでいる。例えばいまこうしているように、書くことは方法の一つだ。しかしただ書くのでは、うまく楽にはなれない。「誰かが読むという前提のもとで書く」。それが一番、確実に、私の頭を少し軽くする。
伝えること。
生きてきたあいだ、ずっと、何かを作りたくてしょうがなかった。作ることは私の本分だと思っていた。作ることが好きなのだと思っていた。どうやら、そうではない。書くことは私の本分だと思っていた。どうやらそうではない。描くことを下手なりに好きなのだと思っていた。どうやら、そうでもない。
私が求めていたのは、きっと、伝えることだ。何か作るのは、その手段に過ぎなかった。私の頭をいつも埋めている荒唐無稽な連想を、思いつきを、美しいと思うものを、誰かに伝えたかった。伝えたかった、などというきれいな言葉を使っていいのか、分からないけれど。ぶつけたかったとか、吐き出したかったとか、そのほうが近いのかもしれない。私を潰そうとする巨大な思考の端っこを、持って支えて欲しかった。そういう感覚も、少しある。
だから多分、伝えることにだけ興味を抱く。その手段に拘泥しなさすぎる。多くに手を出し、器用貧乏に終わる。
文章を書いているとき、私が伝えたいのは光景だった。頭の中、思考の濁流の末、見えた光景を誰かに共有したかった。見えた、美しい何かを。それは、切っ先の満月。夕暮れの庭の抱擁。暗い森に慣れた目と、それを灼く光。青くない空。
伝えたいものが光景ならば、多くは、絵に描いた方が早くて確実だ。但し、描けるのであれば。いままでは、描けなかった。絵という形での出力が、頭の中で見えるものに追いつかなかった。描けないものは、書いてきた。言葉を重ねた先に、同じ光景が見えることを願ってきた。
だが今は違う。描ける。描いて伝えられる。伝えたいものは光景なのだから、多くは、絵に描いた方が早くて確実なのだ。
だから書かなくなった。私は私が思う以上に、書くことそのものに拘泥してはいないのだ。勿論、今も書くことはある。絵に描くよりも字を書くほうが、早く確実に光景を伝えられるときも、時にはある。そういうとき私は、自然と文章という伝達手段を選んでいるようである。
書いてきた。描いてきた。書きたいからではなく。描きたいからでは、なかった。妙に寂しい結論だった。寂しいと思うくらいには、たぶんこれら手段のことも、それなりに好きでいるのだろうけど。
上達を望むのも、きっと伝達のため。たぶん、そうなのだろう。今まで描けなかったものが描ければ、頭の中の光景に一歩近づくことができる。今の「スルーされる絵」を脱することができれば、きっと多くに伝えることができるようになる。物語を面白くすることができれば、それも、きっと同じようにはたらく。
それでいいと言ってもらった。言ったあなたは、こんな思考のことは知らない。でも、絵の上達と、そのためにやってあることを褒めてもらった。原動力はなんでもよいと言われた。努力していることが凄いのだと。不思議な気分になった。
別の方は、絵を描くのが好きだと気づいたのは最近だ、と話した。自分が気がつくその瞬間まで、絵を描くことを続けていて良かった。と、言った。そうなりたいと思った。
でも文章は、文章を書く私は、どこに行ってしまうだろう。文章は私の天性だと思う。天性ではあったけど、本分ではないようだった。才能を食い尽くしてからが勝負ならば、私は負けつつある。文章で伝えられない光景が浮かばないから、上達しようとする動機もない。絵を描くほうが早いから、書く動機もそもそもない。
努力しなかった天才と努力した凡才を、ひとりでやることになるのかもしれない。