100000キロメートルの薄皮をやぶる

s81
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少し前、社用車の走行距離が5万キロを超えた。2万5千キロくらいのときに前任者から引き継いだので、私も2万5千キロほど、このスズキのアルトと共に走ったことになる。1年ちょいで2万5千。まあまあ、かなり、けっこう走っているように思う。

外回りの仕事なので、毎日毎日、結構な距離を走っている。少ない日で60キロ、多い日で80キロほど。大体いつも72キロ前後(キリがいい)。お守りがわりの初心者マークがボロボロになってきて、そろそろ説得力がない。でもじっさい、初心者だった。車をほとんど運転したことがないくせに、車で走り回るような仕事に転職した。前任者(優しい壮年男性)を助手席に乗せ、怖い思いをさせまくった。懺悔です。思えば、彼とは一日中一緒に行動していたのに、全然話をしなかった。私が運転するのに必死だったので……。

移動距離と思考能力の関係についての言及をインターネットでたまに見る。移動距離が長くなるほど、思考能力も上がる、みたいな。眉唾だ。でもなんとなく、思い当たる節はある。けれど、何か違うと思う。「移動距離」でも「思考能力」でもないような気がする。自分が移動しまくってるからと言って、自分の思考能力が上がってるとは思わない。

けど、新たな移動手段を得た時に、なにか自分が変わる感覚はあったと思う。

電車の乗り方を覚えた時。新幹線に乗った時。原付で走れるようになった時。原付で、休み休み、100キロの道のりを走破した時。125の免許をとって、はじめて公道で走った時。スーパーカブを買って、よたよたながらも走った時。スーパーカブで、片道100キロを、一気に走破した時。

見えない壁、壁というよりは薄皮。薄皮をやぶる感覚。存在していることにも気づかなかったような自分をとりまく薄皮が、突然やぶけて壊れて、外の新鮮な空気が入ってくる。外があったことや、新鮮な空気があったことに、初めて気がつく。自分の動きにまとわりついて邪魔する薄皮の存在に、初めて気がつく。そんな感覚。

毎日同じ道を同じように走っていても、移動距離を重ねるだけで、数字が膨らんでいっても、それ自体は私を変えるようなものではない。けど、重ねた移動距離は、「このくらいならずっと運転しても大丈夫」という経験になる。その経験は、「このくらいなら走れるから行ってみよう」という選択肢をもたらす。

移動したという結果そのものでなくて、遠くに行けるという可能性。

ふらっと原付にまたがって、海まで走って行くという選択肢を持つこと。朝早く起きられたら、そのまま100キロ走ってこようかなって、選択肢が浮かぶようになること。そういう変化は、たしかにある。気がする。

そして、今居る場所を離れる(ことができる)ことは、思考へも影響する……ような気がする。なんでそう思うんだろう。気が向いたらまた考えるか。

@s81
言葉は膚、わたしとすべてを隔てても、あなたに触れるよすがであれ。