去年のクエストノーツアドカレが楽しかったので、sky星を紡ぐ子どもたちのファン企画としてアドカレを主催した。珍しく行動力がある。いつもいるあのへんの場所で企画主催とかは一切やったことがないのだが、skyでは色々あって企画主催をやっている。驚いたことに、その企画は2年ほど継続して開催している。この気分屋の私が。
今回は主催者として先陣を切り、1日目を担当した。アドカレ、どちらかというと技術屋さん方面の文化な気がする。sky界隈でのアドカレの知名度は皆無のようだったので、先陣を切らざるを得なかった。どんな感じで記事とするのかを示すためとか、見本とか……になるものではないのだけど、まあその役目は負わなくてはならない。一応。
記事では、企画主催に至るまでの「色々あって」の部分の経緯を、記憶の限り全部書いた。ノーカット完全版だ。気分屋の私が継続できている秘訣とかも書いてある。もう、思考全部書き出したといった風情の記事になった。
そして、このページは、そのアドカレ記事の感想文だ。自分の文章の感想文とは……? まあ記事そのものの感想文というより、それへの反響に驚いたという話だ。
想定をはるかに超えて反響があった。挿絵や図解すらない長文記事だ。1万6千字。一応、ヘッダーだけ使い回しの絵を貼っておいたけど。内容も、楽しいだけの話ではないと思う。読み応えになら自信あるけど。それに、なんていうか……かなり……“思想”をやっている記事になってしまっている。11月30日、期日の前日。別の記事に差し替えるべきか、と何度も考えた。フォロワー数の多い方も参加され、想像以上に注目度の高い企画となっていた。こんな思想の滲む文章を、注目度の高い場所で晒すべきではないかもしれないと思った。けれど、企画はもうはじまるところだった。もう新たに文章を書き直す時間はなかった。後戻りできないときになってから、迷いが生じていた。
まあ、でも、と。長いからいいか、と思った。長くて、文字だけで、楽しい話でもない。多分みんな、読まないだろうと。そう思ったので、投稿した。炎上しないといいなと思いながら。結果としては、読まれたし炎上もしなかった。たぶん。
1万6千字。ものすごく長いわけではないが、長文の分類ではあろうと思う。ひとまず、長文とする。この長さの文章が、ふつうに受け入れられた。私には意外に感じられた。長文というものは、もっと読まれないものだと思い込んでいた。まあでも、ジャンルの力があり、企画の力がある。skyという大きなジャンルを考えれば、ものすごく大きな反応というほどでもない。また、企画によって有名人が参加し、その人らによって注目度も上がっている。長文というもののSNS上での弱点は、大きくはリンククリックという一動作のハードルであると思う。けれどジャンルの力と注目度の力で、そのハードルは大きく下げられたのだろう。
エゴサの魔物なので投稿後けっこうサーチしてしまうのだが、しっかり最後まで読んで、感想までつぶやいてくれる方も、かなり多くいらっしゃった。読んでもらえていた。あの長文を。最後まで。これにも驚いた。あと、感想まで。しかも観測範囲ではわりと好評だった。わりとというか、かなり。こんなに好評でいいのかなって感じだった。ありがたいことだ。
そもそも。今回の記事の読者層を完全に把握しているわけではないが……そもそも私の企画は、「書物に親しむ定例会」だ。読書会だ。記事を読んだ人全てがそうではないだろうが、それでも何割かは読書会の参加者さんであろう。ある意味、長文、読めないはずがない。相手の力量を見誤ったな。不覚。ありがたいことだ。
自分の作ったものが、不特定多数の目に触れるということ。インターネットに出しておいてなんだが、毎回新鮮な驚きを得ている。私はふだん、何を作るにせよ、自分の肉を切り出すような気持ちでいる(痛そうな例えだが痛くない時の方が多い。たまに痛い)。切り出した肉を調理して供している。見たり聞いたり読んだりしたもの→食べたものが消化されて我が肉となり、それを切り出している。ふだんは、私を直接知っている人が、私と紐づけて、肉を食べてくれる。けれど、知らない人が肉を食べてくれて、感想までくれるというのは、何だか毎度不思議な心地がするのだ。なんか例えがグロいな!!!!!!!!!!すみませんでした。
言葉。思ったより、人に伝えられるのかもしれない。通信技術はどんどん発達して、画像や動画は気軽な伝達手段になった。あれらは強力に視覚に訴えて、視線をさらっていく。短い時間で、あっというまに。だから、読まれないだろうと思った。読まれないつもりで、30分かかる記事を書いた。読字のスピードを1分に500字として、1万6千字を読むには30分ほどかかるそうだ。30分かあ。YouTubeで30分の動画を見たら、私は相当な長丁場に感じる。そんな長丁場に挑んでくれる人らがいた。
みんなから、ずいぶんたくさんの時間をもらったみたいだ。どうでもいいことをだらだら長く喋っても、聞いてくれる人はいるみたいだ。あなたとか。