「料理」と「赤ちゃんを可愛がること」に対して抵抗感が長年あった。10代後半まではかなり強くて、嫌悪感と言っていいほどの心理的拒否反応が出ていた。緩和されるきっかけは後述するけれども、未だに人前では赤ちゃんをかわいいと言ったり料理の話をしたりすることは避けがちである。
というのは、これらを女性(と他者からみなされる自分)が身に纏ったとき、生活力とかのニュートラル寄りな見方は取り除かれてただの「家庭的な要素を"きちんと"有した女性」になってしまう、ように感じられていやだったからだ。そんなの全くもって自分ではない。自分からかけ離れている。そもそも「家庭的」ってぜんぜん褒め言葉ではない。いや人によってはまだ褒め言葉なのかもしれないが…
「赤ちゃんを可愛がること」から書く。
(ところで赤ちゃんをかわいいと公言してる人って圧倒的に女性が多くないですか? 男性は思っててもなにか言い出しづらかったりするんですか? そもそも「かわいい」自体が発しづらい単語なのか??? それともわたしが見てきた人々に偏りがあっただけ……?)
学生時代、同級生が赤ちゃんを通りすがりにみて「かわいい〜」と言うのに対してわたしはいつも一歩引いてしまい、場に混ざれなかった。そもそもわたしは赤ちゃんをかわいいと思ったことがほとんどない。だから同級生に対して「ほんとにかわいいと思ってるの……?」「赤ちゃんが好きな自分を演じてるだけでは……?」と最低な想像をする始末だった。
そもそもあまり好きではないし興味がないのに加えて、好きになることはむしろ逆に「女性ジェンダーによる献身的な無償のケア業務」へ自分を追いやってしまうことだ、という不安と恐怖があった。だから「赤ちゃんを可愛がること」への抵抗感や嫌悪感が生じたのだ。
でも兄に子どもができたとき、初めて赤ちゃんをかわいいと感じた。脱線するがあれは不思議な感覚だった。外見がいいからかわいいのではなく、「兄の赤ちゃん」という存在をかわいいと感じたからだ。SNSでは度々言ってきたのだが、わたしは「かわいい」は外見などの物理的要素のみに使用される単語だと思っていた時間が長く、人間の内面や態度や存在そのものを「かわいい」と評することがあると学んだのは二十歳近くになってからだった。「兄の赤ちゃん」は、それを学び始めてからの貴重な体験の一つだ。
正直なところ「兄の赤ちゃん」だからさすがにかわいく思えないとやばい、みたいな焦りに近い気持ちがなかったとは言えない。冷静に振り返ると兄の子どもをかわいく思わなくてもべつに異常ではないはずなのだが、ここで「かわいい」と思えるかどうかは当時わたしにとってかなりの分水嶺(人としての)になっていたのだ。
兄の赤ちゃんはかわいかった。かわいいと確かに思えた。でもそれだけだった。そこから「わたしも赤ちゃんがほしい」には全く繋がらなかったし、兄の赤ちゃん以外の赤ちゃんをかわいいと感じることも結局ないままだ。本音を言うと安心している。「赤ちゃんがほしい」と思ったり「赤ちゃんをかわいい」と思ったりする自分にならなかったことにだ。思ってしまう自分は、自分らしくない自分であり、ありたい自分でも、なりたい自分でもないからだ。
そこにどのくらいの内面化されたミソジニーが混ざっているのかはわからない。結びつき過ぎていてどうにもならない。その点、「赤ちゃんを可愛がること」よりは「料理」の方がミソジニーの呪いは緩和されてきて、フラットに捉えることができつつある。
「料理」は、料理自体がこれまた昔からわたしは好きではなかった。工程のすべてが面倒臭いのに食べること自体は一瞬で終わるし、わたしは根本的に食にあまり興味がない。なのに実家で料理をするときは人数分のきちんとした料理をしなくてはならず、するときは正に「家庭的な要素」という嫌な経験値が自分のなかに蓄積されていく感触があり、とにかく、猛烈に、料理が、嫌いだった。
一人暮らしをするようになってから、「料理」が家族のための家庭的な行いではなく、ただただ自分が生きるための行いになった。それに加えて吉本ばななの小説を同じタイミングでいくつか読み漁ったのも大きかった。「料理」を、自分のためになら幾分かポジティブに向き合って取り組めるようになった。嬉しかったと同時に、わたしの料理への無関心は内面化されたミソジニーで形成されたのではなく、かなり生来のものだということが判明したのだった。つまり「元々興味なかっただけなのにジェンダーによって押し付けられる感覚があり嫌いになってしまった」やつだ。ピンク嫌悪と似たパターンだが、ピンク色は好きになった一方で料理は別に好きにはならなかった。
料理は…好きになりたかったな…生活のために…
フォロワーと話す過程で整理できた事柄なのでフォロワーに感謝します。いつもありがとうございます。