※精神的DVに関する部分があります※
こういう連休前の心に暇と隙ができたタイミングでニュッ…と顕在化してくるもの。そうそれは、祖母の介護を親に任せっきりにしていたことに対する罪悪感である。
わたしは高齢出産で生まれたので物心ついた頃には両親も同居の祖母もそれなりに歳をとっており、祖母はわたしが小学生のときはデイサービスに通い、中学生の途中から家でほぼ寝たきりになり、高校生の途中から施設で暮らし、大学生のときに亡くなった。それと並行して、中学のときに父親が急死し兄たちも就職や結婚で出ていったため、小学生のときは家に六人いた人間が高校生のときにはわたしと母親だけになった。
ヤングケアラーという社会問題に触れるたびにわたしは昔のことを思い出し、今に至るまで消えない罪悪感について考える。
祖母は、なんと言い表したらよいのか未だにわからないがとにかく会話が成り立たない人で、且つ母親にずっと精神的DVを振るっていた。元から本当に話が通じなかったので、認知症がいつから始まったのか分からなかったというのが当時共に生活していた人間のあいだでの共通認識である。母親はわたしに「一緒に祖母の世話をしろ」とは決して言わなかったが、祖母が亡くなるまでの十数年間と、特に父や兄がいなくなってからの期間、わたしは母親にとって唯一の聞き手として機能していた。祖母は声量があり社交的でお調子者だったが、同時に母親の悪口やあることないことを他者に吹き込み、誰に対してもありがとうと言わない人だった。体格がよくてずっと足を悪くしていたので、古い木造廊下を歩くときは壁や床が一歩ごとにおおきく軋む音を立てた。若い男が大好きで施設ではセクハラ発言を繰り返した。わたしは祖母の機嫌を損ねるのが上手かったので、よくクソガキと罵られた。
祖母が憎くて仕方なかった。だからそんな祖母もとい姑を非常に献身的に世話する母親のことがよく分からなかった。祖母が廊下をぎしぎし歩いてきて母親やわたしを罵倒する夢は当時の定番の悪夢で、わたしは祖母に近寄ることがおそろしかった。母親からのほぼ毎日の吐露を、本当に本音をいうとかなり苦痛だったけれどそれでもすべて聞いていたのは、わたしよりもずっとつらいであろう母親へ祖母の介護を押し付けているその罪滅ぼしだった。母親がつらい思いをして弱っているのに、わたしがつらい素振りをみせては駄目だと思っていた。父親がある日倒れてそのまま死んだことがかなり尾を引いていて、学校から帰るときは家で母親が倒れていないかがいつも気になった。それなのに、どんなに母親のことが心配でもわたしは話を聞くこと以外は一切何もできなかった。なぜわたしはこれ以上がんばれないのだろうと思っていた。
祖母が亡くなってから、自分でも意外だったが恨みは嘘のように雲散霧消していった。祖母の夢をみることもなくなった。ただ父の夢はみる。わたしは大層な父親っ子だった。急死して以降のグリーフケアが今の今まで追いついていないのだ。祖母という大問題が家庭内にあるのに父のことをメソメソしているのはだめだ、と自分を責めて感情を抑圧するのをやめられなかった。
ヤングケアラーの人たちの話を見聞きするたび、「わたしは全然ちゃんとできなかった」「この子たちみたいにしっかりできなかった」という罪悪感、後ろめたさ、自己否定が襲ってくる。未だにである。
今となっては、わたしの一連の精神状態はさまざまな認知の歪みや、何よりも公的ケアの少なさに起因するもの…と捉え直すことが一応できるようになったものの、自分のケアが正直まだまだ足りていないので、こうやって文章化を試みた。当時の家庭環境がめまぐるしい変化のなかにあったため正直何度も何度も文章化をしないと言葉が足りることはないだろうなと思っている。あの頃の自分がまだずっと心のなかにいる。