二次創作を通したセクシュアリティ自認体験記

谷澤
·

しずイン最初の投稿で、「二次創作をするまでは自分のことをヘテロ(のはずなのにどうにも違和感がある)と思っていた」と書いた。

他にも似たことを言ってる人を何名か見かけたことがあり、ということはたぶん実際はもっといるんだろうなあと思う。興味深いのでわたしの場合を以下に書いた。

わたしは数年前から某作品をきっかけに二次創作をするようになり、途中からCPも扱うようになった。それまでずっと読専のオタクをやっていたけど、その頃どうやって人様のCP作品を見ていたのか最早わからない。自分でCP表象を考えるようになってから、感じることが変わり過ぎてほとんど思い出せないのだ。「そういうもの」と思って受け取っていたとしか言いようがないというか…

この「そういうもの」というのは、

〈相手を好きになる→努力する→両思いになる→性行為する〉を代表するような、カップリングにおいて(というか現実社会でも)定番の作法?お約束?を指す。

ここまで書いてちょっと思い出したが、「性行為したいがために告白するんやなあ」「性行為がゴールなんやなあ」とぼんやり不思議には思っていた気がする。付き合うことと性行為をすることとの間に因果関係が見出せない…文脈が読めないまま、お付き合い即性行為が始まる不文律が謎…

(そもそもとして、性行為抜きにしても、いわゆる付き合うって何なのか? 付き合った途端いきなり生活上のやることリスト、相手に対するケア義務が発生して面倒臭さしかなくないか? 謎…………付き合う付き合わないがどうしてそんな重要な境界線になるのかわからない。付き合う前にしたらだめなことがあり、付き合ったらしてもいいことがある。逆に、付き合う前ならしてもいいのに、付き合ってからはNGなこともある。みんながその謎ルールに従って人生を送っている。あと「好き」と言っただけで「付き合ってください」と言ったことになったりする。それら全て、自分にはあまりにも不明な感覚だった)

でも、あまりそこで深掘りして考えることはなかった。わからないながらも楽しく受容していたのだ。

自分で作るようになってから否が応でも考えざるを得なくなった。

CPとして書き進めているはずなのに、どうにもこれまで読んできたそれらのお約束に行き着くことができなかったからだ。そもそも今自分が書いているこの関係や感情はもしかして恋愛ではないのでは? と最終的に疑うようになった。頭のなかから自分の見たいまま出力した結果、わたしが恋愛だと思い込んで恋愛のつもりで書いていたものはどうやらちょっと、いや大幅にお約束からズレていたことを知ったのだ。これまで受容してきた他者の感覚と自分の感覚とのあいだに齟齬があることを、ここでようやくはっきり認識したのだった。

今なら分かるけれども、わたしは自分のAro/Aceスペクトラム的感覚を無意識のままキャラクターたちに反映させていました。どうりで書いても書いても「相手に同じ恋愛感情を返してほしい」とか「相手と性行為したい」とかキャラクターたちが思わないわけである。ちなみに今は、創作中に無意識にまた反映させていること自体には気づくものの、「でもこれがわたしの見たいやつなんだもんな〜」と思ってそのままにしています。

我ながら面白い自認体験なのでこうやって書いているけれど、当時は自分と世界とのあいだに認識の齟齬があったことにかなり戸惑い、調べる日々が始まっていた。「エロい どういう感情」「恋愛感情とは」みたいな検索をしまくった結果Aスペクトラムに関するサイトに行き着いた気がする。間抜けだなあと思うが、それまでわたしは無性愛のことを「無性の人を愛する」ことだと思っていました。だって異性愛とか同性愛とかいうなら無性愛も同じ用法だと思うじゃん。あとわたしはフィクション上の性行為に対する嫌悪感もないし、性欲自体はあるので、「エロい」を多数の他者と同じ内容で認識しているつもりだったのだ。

今わたしはアロマンティックアセクシュアルを自認しているが、細かくいうとグレーロマンティック、リスロマンティック、フィクトロマンティック、そしてエーゴセクシュアルを自認している。わたしはラベルがあることが嬉しいタイプの人間だ。自分以外にも同じような人がいるのだと知れるし、当てはまることに安心感を得る性質だからだ。

エーゴセクシュアルはたぶんオタクに多い。とよく言われているし、わたしもそう思う。アセクシュアルは雑で不適格な説明の場合「性欲がない人」と一括りにされがちだが全然そうではない。アセクシュアルにも色んな人がいるし、アロマンティックにも色んな人がいる、シスヘテロがそうであるのと同様だ。そのことを本気で理解するのには時間がかかったが、今では「スペクトラム」という表現を確かにそうだと思っていて、その上でわたしは自分にとって心地のいい、より納得感のあるラベルを名乗っている。他者がどう言って来ようともわたしにラベルは必要だった。

二次創作の話に戻る。わたしは成人向け作品も書いたことはあるし、それもいわゆるハート構文のポルノ小説である。型があるので作れてしまうのだ。ハート構文に限らずこの世の色んなもんは型がある。したがって冒頭に書いた恋愛の作法だって、頭では「作法」と分かっているのだから書けるはずなのだ。でも書かなかったし書く予定も今の所ない。その作法にみずから萌えを抱くことは実のところほぼなかったからだ。ハート構文は書きたいから書きました。どうでもいいけど「萌え」ってオタクの生んだ言葉のなかでもなんだかんだでいちばん万能な気がする。誰かを傷つける可能性も他の過激なミームに比べてかなり少ない気がするし…

これまでの現実の生活でずっと抱いていた疑問や違和感、それらに対してのキーワードをようやく見つけたことは、わたしにまず混乱をもたらした。だからこそ言葉にするのは自分の整理になって大変よかったし、今こうやって書いた内容が色んな人の参考になればいいと思う。

今は小説は全く書いておらず短歌でずっと創作をしている。短歌から二次創作を始めていたらわたしは自分のセクシュアリティについてまた別のアプローチをしていたのかもしれないなとたまに考える。他の人の話もきいてみたい。よかったらぜひきかせてください。ここまで読んでくれた誰かたちへ。

2/29追記(6/2修正):

わたしはどちらかというと、アロマンティシズムよりアセクシュアリティにアイデンティティを置いてきた人間で、なおかつアロマンティックとアセクシュアルが連続体になっているというかとにかく切り離して語ることは容易ではないのだが、だからこそアセクシュアルではなくアロマンティックについて今一度ちゃんと言語化を試みたいと思ったので追記した。※二次創作の話はもう出てきません

上述してきたことと被るが、わたしは長年「付き合う」ということの素晴らしさがずっと理解できずにいる。「そもそもなんで付き合うの?付き合うって何の契約?」ってずっと思っている。ツイッターでAroスペクトラムの人が同様のことを言っているのをみるまでは、自分のこの感覚が自分で半信半疑だった。「付き合う」ことが相手へのさまざまな権利を手に入れることだと思っている人がこの世ではほとんどらしいが、わたしは「付き合う」は相手へのあらゆる義務を負うことだと思えてならない。「好きです」のあとに「付き合ってください」が続くのがよくわからない。「付き合う」ことにあまりにあらゆるものがパッケージングされていることがよくわからない。ぜんぶ暗黙の了解であることがよくわからない。「付き合う」ことにおいて何を求めているのか、付き合う付き合わないで何が変わるのか、わたしはまず説明がほしい。「付き合う」の一言でまとめられている膨大で多岐にわたる要求がおそろしいし、困る。自分はAceでもあり現実的性嫌悪もあるAroスペクトラムなので、要求のなかに性行為が含まれているのがなにより怖いのだが、それ以前の要求であろう「相手へ同じ恋愛感情を返すこと」、「恋愛感情に基づいたケアをすること」が不可能なのである。自分がこれらの要求を相手に向けることもない。恋愛感情がずっとピンと来ていないのだから、そもそも抱きようのない要求である。

これは上述したように、グレーロマンティックでありリスロマンティックであることから来る感覚なのだろうと今は納得している。

「目の前にいる特定の他者」に対してときめいたり、熱烈な感情を持ったりすることがほとんど無く、持ったとしてもごく稀で、希薄で、継続せず、なにより相手におなじ熱烈な感情を返してほしいと思えたことがない。恋愛感情とやらを介した契約を、「目の前にいる特定の他者」としたいと切望できたことがない。

かなりアロマンティックに近い、ほぼアロマンティック、そういう感じである。

それとこれめっちゃ言いたいんですけど別に付き合ってなくても、恋愛感情を介してなくても、介せなくても、合意があればセックスしてていいものじゃないんですか? 付き合っていないままセックスしていること、恋愛的に好きなわけではないままセックスしていること、これらがどうして社会的に良くないこととして扱われているのかマジでずっとよくわからないです。

それと(2回目)、Allo/Alloの人に分かっててほしいんですけど、Aro/Aceでもセックスできる人はできますし、なかにはセックスが好きな人もいます。ただAllo/Alloの感覚に基づく「合意」や「好き」とは異なっていることが多いと思います。言いたいことが無限に出てくるんですけど自分で拙く書くよりも本を読んでもらうほうが絶対いいので下段で紹介しておきますね。


『ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』(左右社)を読んだのをきっかけにこの投稿をして、何度も加筆修正を繰り返してここに至ってる。この本、自分が今まで感じてきたことがギュッと詰まっててびっくり仰天の読書体験だった。アセクシュアルについてかなり包括的かつ個別具体的なエピソードを以て書かれていて、尚且つ、AroとAceが別物であることを含め、Aceのインターセクショナリティについて書かれているので、個人的には非常におすすめ。自認者はもちろん、非自認者にこそ読んでみてほしい〜……

最近でた『いちばんやさしいアロマンティックやアセクシュアルのこと』(明石書店)は、Blueskyでも言ったけどAceではないAroの方たち(Aro/Allo)を完全に透明化してしまっているので正直自分はおすすめできない。あまりにもお決まりの透明化パターンだったので感想ハガキを送ってみたけど…アロマンティックについての書籍がもっとあればなと、Aro/Alloの人を知るようになってから特に強く思うようになった。

あとアロマンティックとかアセクシュアルとか色々書きましたがそもそもどっちがどう違うねんて思った方は、まずスプリット・アトラクション・モデルについて調べてください。たとえばフィクトロマンティックとフィクトセクシュアルは意味の異なる言葉ですし、グレーロマンティックとグレーセクシュアルも意味の異なる言葉です。