シュノーケル

人工的な桜
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公開:2025/4/6

 午前四時。

 世界はまだ眠っているのに、僕だけが目を覚ましていた。街灯が照らすアスファルトは濡れていて、昨日の雨がまだ完全に引いていない。誰もいないコンビニの裏手で、冷たい缶コーヒーを開けた。炭酸でもないのに、音だけがやけに響いて、胸の奥で何かが軋んだ。

 「もういいよ」って言われた言葉が、昨日のように鮮明で、でも指の間から零れた記憶みたいに曖昧だった。

 ねえ、本当に僕、何か悪いことをしたのかな。君が遠ざかるたび、僕の呼吸はどんどん浅くなって、今じゃ水の中で生きてるみたいだよ。あのとき、君が残したマグカップの中に溶けていた砂糖の甘さを、何度も思い出そうとしてる。でも、味だけがどうしても思い出せない。

 帰り道、人気のない歩道橋の上に立ち尽くしていた。

 僕の心臓は確かに動いてる。でも、誰のために? 何のために? 深く吸い込んでも、どこかで窒素が混ざってる。苦しい。だけど止められない。シュノーケル越しの呼吸みたいだ。地上にいるはずなのに、水の中みたいで、まるでまともに息ができない。

 君の言葉だけが浮き輪だった。だけど、その浮き輪に君自身がナイフを刺した。

 「重たい」って言った君の声を、何度夢の中で繰り返し聞いたかわからない。

 重たいのは僕のせいか、それとも君の手がもう別の誰かを掴んでたからか。いや、そんなことはもうどうでもいい。ただ、もしもまだ間に合うなら――なんて、嘘みたいな希望を、僕はまだ諦めきれていない。

 午前五時。

 空が少し白んできて、世界が再び動き出そうとしていた。

 だけど僕の時間だけは、まだ昨日のままだ。

 舞台の幕は下りていない。誰も見てないのに、僕は踊り続けている。

 シュノーケル越しに、君の声を探しながら。

@sabunana
欠落こそが君の哲学