今年の3月頭に岡山に行った。
目的は長島愛生園で、喜田清さんの「名ぐはし島の詩 長島愛生園に在日朝鮮人・韓国人を訪ねて」を去年読み、どうしても一度この島に行ってみたいと思ったのがきっかけだった。本は内容がとにかくすさまじくて、去年末に書いた日記にも触れたんですが(地面を踏み固めること|相楽)あいにく絶版なので図書館で探してみてください。
医療従事者のはしくれなのでハンセン病のことは学んだけれど、それこそ教科書的な知識でとどまっていたし、一度地元で回復者の伊波敏男さんの講演を聞いたきりだった。それが、韓国文学の興味関心が派生してこの本に辿り着き、長島愛生園で暮らした在日韓国人・朝鮮人の回復者の語りから、自分の国が過去にした差別的な歴史をまなざすことになった。また、ちょうど旧優生保護法の最高裁の前だったので色々学ぶ機会もあり、きっかけはどうであっても、知ったからには行かないとと思って、さっと腰を上げた。
瀬戸内海とはいえ、まだ春の浅い時分で肌寒く、最終日は大雨で(地元に帰ったら大雪だった)愛生園以外には特にこれといってどこにも寄らず帰ってくるという、旅としてはずいぶんぼんやりとしたものだった。はじめは一人旅の予定だったのに、色々あって傷心中の妹がくっついてきたけれど、ふたりともとにかく長島愛生園にだけ行くことしか決めていなかったので、やたら広くて整備された岡山駅前の大通りを目的なくさまよったりした。あ、大阪のうまいパン屋は行った。岡山では身の厚いぶりんぶりんのブリも食べました。超美味しかった。何はしなくとも、うまいものは食べないと。
長島愛生園は、岡山駅から電車とバスを乗り継いで片道2時間近く掛けて行く。岡山駅から乗った播州赤穂行の電車は、観光に行くらしきご老人でいっぱいだった。ボックス席の向かいに座った老夫婦が豪快にかしわ餅のかしわの葉までむしゃむしゃたべたあと葉の芯をするするーと口から出していて、11時近かったのもあってその食べっぷりに妙に感心してしまった。そのあと、立て続けにミックスナッツとみかんも食べていた。こんなにもりもり食べてお昼ごはんどうするんだろうと思ってやたらと観察してしまってごめんなさい。
電車を降りたらバスに乗り換え、島と本土をつなぐ邑久長島大橋を渡って長島に行くのだけれど、この邑久長島大橋に関する映像が島の記念館で見れて、行きと帰りでは随分気持ちが違った。バスはものすごく古くて、ぎしぎし揺れた。そうして、驚いたのは、バスにぜんぜん広告がぶらさがっていなかったことだ。卒業シーズンだったので、地元の小学校と中学校の先生たちの寄せ書き風の卒業メッセージが一枚ずつ、行き帰りそれぞれのバスに貼ってあっただけだった。愛生園から市内に通うバスや、待合室にも一苦労あったことを本で読んだので、A4一枚にあつめられたメッセージを読み、そういえば高校を卒業して以来ずっと関西に暮らしている妹の好みって意外と知らないなと思って、好きなミスドから好きなケーキ、死ぬ前に食べたい好物などの話をしてえんえんとバスに揺られた。妹はショートケーキがあまり得意ではなくて、フルーツタルトが好きらしい。そういえば、妹の誕生日ケーキを最後に一緒に食べたのはいつだったろうと思う。
長島愛生園前に降り立ったのはわたしたち姉妹だけだった。バスが折り返して帰っていく。到着は12時前。そうして次にバスが来るのは5時。
長島はふたつのハンセン病回復者のための施設があるだけの、本当に静かな場所だった。風は強いけれど春の日差しを受けて輝く海には、養殖筏がたくさん並ぶ。職員らしき人が運転する以外に人通りはなくて、時々物影が動いたと思って顔をあげると鹿がこちらをみていた。島は感染対策で入れる場所が決まっていて、歩いても30分かからなかった。日差しは暖かいけれど午後になるにつれて日が陰ってきて寒く、風もあったので外にいられず、ひたすら資料館で展示を見て、証言を聞くこと2時間。特別展示室では愛生園にあった楽団の展示をやっていて、点字の楽譜を一心不乱に舌読したせいで舌が切れて楽譜が血まみれになっていたという記録を読む。資料館は、古いほこりをまとったカーテンが、日差しで温められたときの特有のにおいがしている。
わたしが行くきっかけになった本は在日韓国人・朝鮮人の聞き取りの記録で、長島愛生園は地理的なこともあり朝鮮人や中国人が多かったようだけれど、確認できた範囲では、証言の映像資料に在日の方はひとりしかいらっしゃらなかった。その方は、流暢な標準語を話された。その、綺麗な標準語がなにをしめすのか、わたしは考えた。講演を重ねて喋り慣れた様子のその方は、施設の朝鮮人は言葉の不自由さから偏見を持たれること、粗野な扱いをされて不満を持ち言葉を荒げると朝鮮人は怒りっぽくて言葉が荒いと言われたことをお話されていた。
国が軍国主義から民族浄化運動の果てにらい予防と称して隔離政策をしたことや、ハンセン病そのものに対する差別の歴史は資料館の要だと思う。いまもまだ続く差別の渦中にいる方もいるし、最高裁で旧優生保護法の違憲判決が出たことは喜ばしい。けれど、病気だけでなく、そもそもの戦争と侵略、植民地支配によって国が貧困化し、自分の国の言葉と文字と文化を奪われた状態で労働力として連れてこられ、病気になり、遠い国で隔離され続け、亡くなった人々への、国としての謝罪の言葉は、どうやったら見つかるのだろうと思って、途方に暮れた。本に書かれていた、やっとの思いで言葉を学び、信仰を身につけてなんとか生き延びてきたことを、その根本的な戦争の加害の側面を学んでから長島愛生園に立っているわたしは、不勉強だった自分や、色々なことに対して、言葉を見つけることができなかった。
長島愛生園の敷地のなかで、本の中で一番印象的だった「一郎道」という道がある。長島は隔離政策で連れてこられた方たちが一から開拓した島で、その道は韓国人の久保田一郎さん(具奉守)が土木工事の指揮を執って切り開いた道だった。彼は指揮を執った道が完成した後に、病状が悪化し、気切切開をした直後に入水で自死をされた。その道をどうしても通ってみたい、と思っていったのだけれど、生活圏のため感染対策で一般の立ち入りが禁止されており、ふもとにある教会から、上り坂になっている、広いまっすぐな道を眺めた。海は本当に静かだった。島のあちこちにあるスピーカーから、ローカルラジオが流れていた。
行って半年以上たつけれど、長島は忘れがたい場所になるだろうと思う。
学生のころ、北海道の余市の端にある施設に実習に行っていたとき、わたしにひとつずつ編み物を教えてくれた92歳のおばあちゃんがいる。間違えても根気よく、じょうず、よくできているよ、と褒めてくれた。
施設から帰るとき、暗く荒れた4月の海を見ながら、とても「またね」と言って別れられないような遠い果てのような場所で、二度と会えないだろうひとに親切にされたことを、わたしは忘れないだろうと思っていた。ああ、ここって果てなんだ、と思っていた。その時を思い出すとひろがる寂寞感と同じくらいしんとしたものを、長島にも感じていた。
去年行きたくて会期を逃してしまった趙根在さんの写真展があり、すごく残念に思っていたのだけど、今年本が出て、ちょうどいま読み進めている。
光を見た ハンセン病の同胞(きょうだい)たち | 図書出版 クレイン
差別と分断がすすんで、冷笑が真面目さより重宝されて、親切は暴力の餌になってしまうような世の中で、いやになってしまうので、この文章を書いた。ひとりひとりの生活史に落ちるままならなさや、親切や、作業や、学びや、想像できないような利他的な部分に、いつだってはっと足を止めて、地に足をつけなおしたいと思っている。