『あえかなる部屋 内藤礼と、光たち』の、映画監督としての中村佑子。私が彼女の作品に最初に触れたのは2015年9月19日のイメージフォーラムでのことだった。
わたしはまだ働き始めて一年目で、せっかく渋谷で働いててイメージフォーラムなんて徒歩数分なのだからたくさん通おうだなんて気負っていて、でもあまりにも仕事のできない中で疲れ果てたり塞ぎ込んだりしながら、それでもなんとか時間を捻り出して21時からの上映に駆け込んだことを覚えている。
静かで、しかし、随分と奇妙で、でもひどく惹かれる映画だった、という印象は今でも残っている。内藤礼に取材し、二年に渡って撮影を続けるものの、あるとき内藤は「撮られると、つくることが失われてしまう」と撮影を拒否する。一度は撮ることを諦めかける。
しかし時をおき「生きていることは、それ自体、祝福であるのか」という内藤の作品の本質を、内藤にキャメラを向けずに迫ることを決意する。内藤の不在を埋めるように5人の女性と出会い、豊島美術館の《母型》に集い、彼女たちの傷みの感覚や生と死に対する言葉が紡がれていく。
ドキュメンタリーとして立ち上がりかけた映像が、頓挫し、中村自身の内面との往還との中で別様に、当初の道ゆきと違う形で別の場所へと向かってゆく。この映画の道程は『わたしが誰かわからない ヤングケアラーを探す旅』にもよく似てる、と思い、映画のパンフレットを本棚から取りだしながら読み進めた。
この本の執筆の過程で、5ヶ月をかけて、二人目の子どもの出産を経ながら行った取材の原稿2本が掲載を拒まれることとなる。「自分ひとりが勝手に語ることはできないと思いなおす」(p.80)や、「もっと抜き差しならない状況の子どもたちも多い。その言葉を使うのさえ引け目を感じる…(中略)…当事者ではないのではないか」(p.81)という思いを抱く取材対象者中で、中村は書く意味を見失っていく。
連載を辞退したいとも言い出せない中で、一つのアイデアとして専門家の意見の取材を提案し、臨床心理士の猪股剛との対話を行う。ここでの中村の言葉を引用しよう。
この経験のなかで、わたしは被害者でも加害者でもある。でも言葉にすると、例えば自分は被害者であるというところの固着化してしまって、一面的な物語になてしまいそうなんです。被害者でも加害者でもあるような体験を、わたしはときおり胸のなかで眺めにいくんです。その時間がわたしには必要だし、大切なんです。ものをつくる人間だからかもしれないけど……
(中略)
波打ち際がその日の光によって姿を変えるに、時折その波のように幾重にも見える体験のそばにたたずんで、眺めにいくことが自分にとっては大切なんですよね。それが一面的な姿しか見せなくなったら、固定化してしまったら、わたしは生きていけないと思います
(中村佑子『わたしが誰かわからない ヤングケアラーを探す旅』 p.94)
これは『あえかなる部屋 内藤礼と、光たち』での内藤の「撮られると、つくることが失われてしまう」ということばを思い起こさせる。固定化することで多様で、ある種豊かなありさまが失われてしまうこと。
中村はこうしたありかたにたいして「これは「ケア」というものが抱える、本質的な感覚ではないかと思い至」(p.153)ることになる。「不確実性のなかに身を置くことに慣れなければ、病に付き添う日々はなかなか受け入れられない。ケア的主体とは、常に変化のなかに身を置く訓練をしているということではないか」(同)、「ケアを必要とする精神疾患を抱えた家族は、彼女たちにとって傷であり、刃であり、深い穴である一方で、光であり、憧れであれ、生きる意味だった。そして彼/彼女は自分自身であり、一方であまりに他者のようだった」(p.154)、「床をきれいにしているわたしは、自分の輪郭線を守ろうとするわたし。前方を確認しないのも、わたしを侵食するものを目に入れないように防波堤を建てるわたし。だけど毎日一緒にいるからこそ、ちょっとの予兆を感じ取ることができる。何か危ないことが怒っている。すぐに窓が開いていることに気がついて、ぱっと立ち上がり走ることができる、腕を引っ張ることができるわたしは、もうそのときこの世界の向こう側にいこうとしている人と同じ心持ちになっている。」(p.156)
これ以外にもさまざまなことばでケア的主体の自己崩壊と自己保存について繰り返し書かれる。
第七章では『あえかなる部屋』について、そして内藤礼の作品<母型>について言及される。床のいたるところから地下水の水滴が湧き出し、流れ、集まり生き物のように動いていく。
中村は「輪郭がほどけることの快感と、また輪郭が離れて別々に流れていく、その決然とした姿。両者のあいだの行き来こそがたったひとりで生まれてきた生命の、必死の往来なのかもしれない」(p.184)という。
ここでもわたしは『あえかなる部屋』の内藤礼のことばをおもいだす。
「自分がいる」という実感を持ちたいということと、「自分がいる」ということを忘れるということはほとんど同じようにある。作っているときは、まさに「自分がいる」ということを忘れるための行為。お祈りみたいなもの。
中村も自分を消したいという内藤のことばを読んだことを内藤に惹かれたきっかけとしてあげる。そして、以下のように言う。
いしかしわたし自身、つくることは自己消滅の先にあるとつねづね感じている。むしろ自分が手を動かしている、自分の意志がこの形を欲すると感じることから解放された彼方から、つくることの本当の意味がやってくる。(p.192)
中村の前著『マザリング 現代の母なる場所』でも感じたことだが、書くものも撮るものも、その作り方それ自体も、なんとか捉えようとしているものであったり、通底する祈りのようなものはきっとずっと共通している。
内藤礼の部屋にある西日のなかのヴェイユも、あるいは中村が高校時代に夢中になったという『重力と恩寵』も一続きに響き合うように。内藤とべつのしかたで中村は世界に信じられる場所をつくろうとしている。
みずからの生をどうしても消滅させたい人の衝動を、消してあげることはできない。でも、それでもなお、と思う。いつだって、それでもなお、というものがもつ尊さを想っていた。それでも、きっと世界には信じられる場所があると、わたしは切実に想っていた。(p.197)
自己の輪郭は、溶け出し、開いている。誰かのために行動しても、やはり開いているのではないか。誰かのために生きているとき、そこには自分のための生も、また同時に燃えひろがっている。
それを犠牲などと呼ぶ方がおこがましいのだ。自分が犠牲になっているのではなく、自己をひろげ、開いていった先に、他の人の生があって、それを必死で一緒に生きているだけなのだ。
そんなふうにして、犠牲を、尽くすことを、献身を、ケアする人間をとらえることができれば。
わたしがずっと窮屈だと思っていた主体の壁はなくなり、わたしはそこでいったんは消えるかもしれないが、そこで多くのひととともにわたしはまた生きはじめるだろう(p.214)
以下、印象に残った箇所の抜き書き
感情を使って聴くことが、苦しかったり悲しかったりした幼いころの感情の住まう家を一つひとつ建てることにつながっていくのではないか。迷子になった幼いころの感情は、ともすればすぐに幽霊のようになってゆらゆらと悪さをして、大人のわたしたちを苛む。孤独感として、寂しさとして、不条理として、悔しさとして、解消しきれない期待や憧憬として。
幽霊たちの感情の家を、一つひとつ建てるしかない。
いまはただ漠然とだが、私はそう思っている。そんなことを思ったので、わたしはまたおずおずと、先が見えないまま、ここで書きはじめたのだ。(p.104)
取材の後日かなこさんは、お父さまがかなこさんに残したメモと、かなこさんが生まれた時に日銀の社内報に載せた文章を送ってくれた。そこにはこうある。
赤ん坊のつめの色は桜貝色 こんなにきれいな桜貝のおちている海岸を教えてください
頭の産毛はうすみどりの芝生 こんなにきれいな芝生のはえている庭をいしえて下さい
(中略)
今が我が家の一番幸せなひととき
もう少しこのままいさせてと祈っている
もう少しこのままいさせてーー。病がどんどん自分の深いところを壊していく予兆を感じていたお父さまは、誕生したかなこさんを前に、ただただ祈った。もう少しだけこのままでいたい。
叶わないと薄々知っているからこそ、この祈りはむへの投擲ともいえる絶体絶命のダイブのように思えた。誕生の喜びと同時に、この子の未来の重さをもかんじただろう。だからこその、光り輝くような純粋な祈り。
この光をかなこさんは背負っているからこそ、勁いのだとも思った。(p.136)
親をうらむくらいなら、毒親などと呼ぶくらいなら、出家したいと思っていたと書いたことがある。とてもつらい気持ちになったとき、遠くまで散歩して見つけたカソリックの修道院に、何がしかの事態が起こったら訪ねようと思っていた。
その教会にしばらく座っていたことがあって、ただいろんなことを考えていたのだが、気づけば日が暮れて、三時間ほど座っていただろうか。ステンドグラスの窓からリノリウムの床に光の束が落ち、光線の傾きによって色を変えていた。
それをただ眺めながら、世界がいいところであると信じたいと、それだけを思っていた気がする。
そのころわたしはいつでも、この世界はいいところであると信じていたかった。(p.195-196)