「怒る」という感情についてやっとわかった事

田中
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今日、友達に対して怒ることがあった。チャットで、「それはどうなの?」と思う返信が来たのだ。「は?」が第一印象だった。私はきれいな言葉を人に届けたいから普段の言葉遣いは気をつけてるが、普通に全然口は悪い。「おいそれはねーだろ」と怒りの感情がメラメラ燃えてきた。心の中では燃え始めながら、しかしチャットには、相手の文章に対する返事のみを書いていく。まるで怒っていないかのように。

私は怒ることが苦手だし下手だ。そんな私が、『怒り方』『怒りという感情との付き合い方』に少し気付けた話である。

事の経緯をぼかしながらざっくり説明すると、通話の約束をしてた相手が時間になっても応答なし、かなり待ってから来た連絡の文章が私にとっては嫌で、私は怒った。でもそれを表面化しなかった、という流れだ。で、相手はこれこれがあるからもう少し待ってほしいとの事だったのでチャットのやりとりは最小限で終了。遅れた理由なども聞けないまま、しばらく待ちの時間ができた。(ちなみに“これこれ”は大事な用事だったし、私との通話は遊びに過ぎないので、さらに待つことには怒ってない。)

一人の時間。小さくもしっかり燃えている怒りの心。私の脳内ではいつものように会議が始まった。「あれって酷くない?」最初に発言するのは大抵《感情》の私である。「だってこれってこうするべきだもんね、酷いよ。」《正しくありたい》私が続く。「いやでもさ、」と相対するのは《理性》の私。「過去のこれから、現在のこれは予想できたよね?」事実を並べていく。その隣にいるのは《優しくありたい》私。「だから仕方ないじゃない。それに怒るほどのことじゃないよ。」こうやって、私はいつも脳内会議している。特に他人と関わる時に活発に行なわれる。相手の言動から考えや気持ちを読み取り、どう返すのが最善か、どういう気持ちでいたらいいかを決めるのだ。基本的に《理性》が優勢で、最終的に大体、理性8:感情2の割合で「私の気持ちのあり方」が決まり、そこからさらに《理性》が《感情》の言葉を添削してから混ぜ合わせて、出来上がった言葉を相手に渡す。今回のような内容の場合は大抵、気持ち「こう思ったけどでも仕方ないよね」→相手に渡す言葉「(だから)気にしてないよ」となる。だから今回もそうしようとした。相手から届いたチャットを読んだ2秒後にはそうしようと会議が結論づいたから、当たり障りのない返事をして待つことにしたのだ。

でも、ここで怒りの感情の扱いが苦手で下手な部分が出てきてしまった。待ってる間行なわれる、自分の気持ちについての脳内会議が白熱していたのだ。《感情》の声がどんどん大きくなっている。「だってイラッとしたじゃん!!!!!」あ、まずい、と思った。《理性》が理由付けを必死に探す。他のメンバーも落ち着かせようとする。でもそれらは《感情》には届かない。止められない。「どうしてイライラした気持ちを抑えなきゃいけないの!?」

こうなったらもうどうしようもない。《感情》と《理性》の意見は平行線状態で、《会議長》である私はどっちにも「そうだよね。」「それもそうなんだよね。」とオロオロし続けるしかない。そして会議は終わらないのだ。平行線だから。だから《会議長》は奥の手を使う。「あ!!あれ見て!?めっちゃおもろい!」指差す先にあるのはYouTube。映ってるのはお気に入りの笑えるYouTuberさん。みんな反射的に見る。目から、耳から受動的に入る情報を無視することはできない。《感情》が「……え。あ、でもさ…」と議題を戻そうとするも、もう他のメンバーは映像に釘付けだ。《理性》が「コレ見て一旦笑いましょ。」と声をかける。そして渋々見続ける《感情》も、いつの間にか惹き込まれ笑っているのだ。これが《会議長》の奥の手、『一旦終わり』である。これを使うと《感情》が落ち着いてくれるから、原因の人と次に関わる時《理性》有利の状態で関われるのだ。ふとした瞬間にまた《感情》が思い出して再開することもある。その度に『一旦終わり』を使う対処療法。これが丸く収まる方法だ。だから今までそうしてきた。

今まではそうしてきたけど、人間関係が原因でうつ病になってから、この奥の手が効かないようになってきた。《感情》がいつまでも落ち着かなかったり、思い出す頻度が多かったり、それで体調を崩したり。こうなってから、私はあまり怒らないというより、怒るのが下手なんだと気付いた。

下手な理由は分かってる。怒ってこなかったからだ。さっきの文をより正しく言うと、“私はあまり怒らない”は事実である。怒ることはすごく少ない。ただ、レアケースで怒った時、怒るのが下手なのだ。そして、嫌いなのだ。怒ってもいいことが何もないし、嫌な気分になるから、小さい頃から嫌いだった。だから脳内会議が開かれるようになり、《感情》は怒る機会を奪われ、怒り方を学べず、怒るのが下手になったのだ。

それがこの数年で解ったから、改善しなきゃいけないとは思ってた。でもどうやったら改善するのか、どれが私にとって最適な怒り方なのかが見つからないままでいた。見つからないまま、どんどん怒りは燃え上がりやすくなるようになっていた。そのまま、今日を迎えた。

一旦《理性》優位で相手に言葉を渡す。待ち時間ができてしまったために、脳内会議が続く。《感情》は怒りを抱えている。どんどん声を荒らげる。燃え盛っていく。《感情》は大きく大きく膨れていく。これが最高潮まで膨らみ、弾け飛ぶと、もう本当にどうしようもない。《感情》は怒りの空気を撒き散らしながら飛び、その空気にやられた他のメンバーは倒れてしまう。飛び回る《感情》は会議室中にぶつかり、室内をぐちゃぐちゃにする。すると『会議室』という名の心はしばらく使えなくなってしまうのだ。

膨れる《感情》を見ながら、《知性》は焦った。この後すぐその相手と通話をしなきゃいけないのだ。今会議室をめちゃくちゃにするわけにはいかない。こういう時には《感情》の中の空気を吐き出す場所を用意してあげるとよい。吐き出しながら、他のメンバーが言ってることを可視化して見せ、落ち着かせようという作戦だ。なのでさっそくSNSに書き込み始めた。「こういうことがあったんだ。別に怒ってるわけじゃないんだよ。ただ悲しくてさ。」怒り以外の感情も提示することで感情の割り振りを分散させ、怒りを小さくしようという作戦だ。《感情》は空気を吐き出す。その空気を他のメンバーがあれこれして、違う視点も見せようとする。《優しくありたい》私が「あの人には怒りたくないんだよね。」とSNSに書き込んだ。それを見た《感情》が言った。

「怒りたくないってことは本当は怒ってるんじゃん。」

全員が《感情》を見た。《感情》は空気を吐き出し続ける。他のメンバーは全員、その空気を見つめていた。

《私たち》は会議と称しながら、《感情》の声を無視していたのだ。

私たちは《感情》の声を聞き続けた。「ここは怒ってない。ここも怒ってない。でもこれには怒ってる。だってこうなんだもん。」《感情》の言葉は理論的だった。ただただ叫んでいるんじゃなく、ちゃんと言葉を発していた。私たちはその言葉を受け入れた。《会議長》は「この点に関して怒っている」と結論づけた。私の記憶上、初めて、自分の怒りの感情を真っ向から受け入れたと思う。

《感情》は空気を吐き出しきると、他のメンバーの意見を聞いてくれた。もう《感情》の中に怒りはほとんどなかった。

そこからは早かった。みんなで車座になり、各々の意見を並べた。《知性》が事実を並べ、《正しくありたい》が相手の良くなかった点をあげ、《感情》がそこに怒ったと言い、《優しくありたい》が相手に怒りを伝えたくないと述べ、《感情》が「今はもうそんなに怒ってないから。」と同意した。《知性》も、怒りの感情を乗せた言葉は“怒ってる”という感情しか伝わらず内容が伝わらないから意味がない、と別角度からの同意を示し、《正しくありたい》が相手の良くなかった点は前から気付いていたので直してほしい、と方向性を決めた。そして《会議長》の私が「怒ってないことを伝えつつこうしてほしかったを言おう」と結論づけた。それぞれが理解しながらも『別のもの』として分けて考えることでこの結論が出た。また混じって分からなくならないよう、紙に箇条書きでまとめ、それを見ながら話すことにした。まとめ終わった時、私の心はスッキリしていた。怒りはなかった。それは、気を逸らせることで無理矢理落ち着かせ、無いようにしたわけじゃなく、確かに私の中にあったもので、“その子”の話を聞いたことで成仏した、ような感覚だった。怒りの感情を覚えた後こんな感覚になるのは初めてだった。

怒りの感情が苦手だった。嫌いだった。どう扱ったらいいか分からなかった。他人が言う方法を試してみても何も変わらなかった。でも単純だった。話を聞いてあげればいいのだ。人間だって、自分の話を聞いてくれない時声を大きくする。聞いて聞いてをする。それと同じだ。聞いて、そうだねと受け入れてあげればよかったのだ。そうして全てを聞いたら“その子”は満足する。スッキリするとも言う。だから怒りの感情が消えたのだ。「自分の負の感情も受け入れてあげて」というのは前から聞いていた。しているつもりだった。でも“つもり”だった。すぐ「でもさ、」と自分の意見を言って遮ったり、聞いてるフリしてそっぽを向いたりしていたのだ。多分、《感情》の声を聞いたら全てが《感情》に染まってしまう気がしていたんだと思う。「1個にまとめなきゃいけない」という気持ちがなぜかあって、だから他のメンバーは染まるまいと無視していた。でもそんなことはなかった。隣にくっつくだけで、混ざりあって1個になるわけじゃなかったんだ。今回、何がきっかけで全員が《感情》の声を聞く姿勢になったのかは正直分からない。今書きながら思い出そうとしても記憶がぼやけている。でも、本当に聞いてる時の姿勢は分かった。隣にくっつく感覚も分かった。きっと次もできる、そう思いたい。

そろそろ締めに入りそうな流れだが、もう少しだけ話したいことがある。もう1つの大事な話だ。

私は自分の気持ちを他人に伝えるのがすごく苦手だ。苦手だし、怖い。なぜそうなのかは今回は置いとくとして、そういう性格なので、いざ通話相手に伝える時ものすごく緊張した。緊張したし、嫌だったし、一瞬「辞めようかな」とよぎった。でも私の手元にはメモがある。それが背中を押してくれ、なんとか伝えることができた。相手は聞き入れてくれた。伝え終わっても緊張していたが、終わらせ方までメモしていたのでそれで話を切りあげ、その後数時間趣味の話などをした。ちゃんと盛り上がった。ちゃんと楽しめていた。通話終了後も楽しかったという気持ちを持ち続けていて、少しして、そういえば冒頭にそんな話をしたんだと思い出した。思い出しても、怒りが再熱することはなかった。「ちゃんと伝わったかな」とか「相手が今後気にしすぎないといいな」とかは考えたが、怒りはなかったし、伝えられてよかったし、何より、相手のことを嫌いになっていなかった。これがもう1つの大事な話。

私はあまり人を嫌いにならない。気が合わないはあるけど嫌いはあまりない。その少しいる嫌いの中の一定数は、最初は好きだったし仲良くしてたけど気付いたら結構嫌いになってた、というパターンだ。思い返したら、このパターンの嫌いになるまでのプロセスは、『最初は好きだったし仲良くしてたけど、“相手の気になる部分を飲み込んだままでいたらそれを種に、気になる部分・嫌だなと思う部分が大きくなり、”気付いたら結構嫌いになってた』だと気付いた。自分の気持ちを伝えるのが苦手なのが、回り回って相手を嫌うことに繋がっていたのである。これに気付いた時ゾッとした。もし今回の私も伝えないを選択してたら、今頃新しい嫌いの種が芽を出していたのかもしれない。

実は伝える決心ができたのにはもうひとつ理由がある。伝えるの怖いな、なんて伝えたらいいかな、と考えていた時、とあるYouTuberさんが話してたことを思い出したのだ。その方も自分の意見を言うことが苦手だったらしい。だから結婚相手にも最初はなかなか言えないでいた。でもある日、言わないといけないよな、と思ったらしく、そこから少しずつ伝えるようにして、今はお互いに思ったことは素直に言いあえて良好な関係を築き続けているらしい。もし喧嘩したとしてもお互い思ったことを言いまくって、言いまくったら落ち着けて、仲直り出来てるらしいと。そのYouTuberさんは夫婦で活動しているので、2人の仲の良さはよく分かっている。この仲の良さの秘訣はそこにあるのか、と動画視聴時感心していた。それをふいに思い出したのだ。「仲良い秘訣は思ったことを伝えること。」決心ができた。これまでは動画を見て笑ったり夫婦の仲の良さにニコニコしていたが、これからは感謝もしながら見るだろう。

そんなわけで、いろんな偶然が重なってこの思考、言動に行き着き、今私はよかったの気持ちでいっぱいでいる。心の成長の階段を1段上った感覚だ。31年も生きてきて1段上がったかどうかくらいの階段を、今、はっきりと1段上れたのだ。自分の力で上ったのだ。

結局いろんな意見を聞いていても自分で気付かないと進まないんだな、と、「人は1人で勝手に助かるだけ」を思い出したし、どんな感情も私の感情だから受け入れて受け止めてあげなきゃいけないんだな、と、猫物語(白)を思い出した。これらは私の好きなラノベの話であり、私の生き方の話でもあるので、また今度書こう。

先ほど階段を1段上ったと書いたが、まだまだ階段は続いている。それに、気持ちを伝えて私はすっきりしているが、相手が今どういう気持ちかは分からない。気にしいな人なので気にしてるかもしれない。その場合どうしたらいいかという問題もある。まだ、たった1段上ったに過ぎないのだ。でも、この1段は大きく、大事な1段だ。絶対忘れないようにしながら、もっと上を目指していきたい。

@sakatanaka
だらだら言葉を並べるのが好きな人が書くメモ書き