2024年2月上旬。まだ空気は冷たく、それまでの私の心はとても暗かった。
この4年ほど、息苦しさを抱えて生きてきた。いや4年は言い過ぎか。最初の1-2年は「楽しい」もちゃんとあった。ともあれその後の2年ほどは、息苦しさを誤魔化しながら日々を生きていた。そうしている自分にようやく気付けたし、そうした自分に気付いてあげられたことで「もういい加減自分を解放してあげたい」と思え、自分のために生きることを決められたのだ。
子供の頃から人の顔色を窺って生きてきた。それが苦しくて悲しくて不安で、4年ほど前から社会人のコミュニティに所属し、コーチングを受けていた。それでも私の「顔色を伺う癖」も、「正解をさがす癖」も直りはしなかった。むしろコミュニティに所属することで、今度は「コミュニティにおいての正解」を探し出そうとし、「コーチやコミュニティの友人たちの顔色を窺う」日々になっていった。世間という、実際には特定されていない「名前のない誰か」からの目を気にする生活から、「名前のついた身近な友人や先輩後輩」の目を気にする日々にすり替わっただけだ。コミュニティに入ったのは生きるのが楽になりたかったはずなのに、何故か年月を経るごとにむしろどんどん苦しくなっていく不可思議さは、そうした自分の内面のこじれた糸の絡まりゆえだったのだ。このことに気づくのに、私は随分と時間がかかってしまった。
2月。縁あって1年ぶりにお会いした方の言葉をきっかけに、改めて昨年1年間の自分を振り返り、自分がどれだけがんばってきたか、どれだけのリソースを割いて人のために動いてきたか、そしてそれをこれからも続けようとしていることで、自分がひどく息苦しく生きていることに気付いたのだ。
こんなにも頑張っている自分だから「あなたはこんなにも頑張ったんだね」と言ってあげたい。自分で自分のことをもっと大切にしてあげたい。誰よりも自分が自分のことを愛してあげよう。
そう強く思えたから、「自分のために生きよう」と決めることができた。誰がなんと言おうと、私が私の味方をするから大丈夫。私が私のことを愛してあげているから大丈夫。
そう心に決めたら、不思議なくらい生きるのが楽になった。楽になったことで自分がいかに「人の顔色を窺って生きてきたか」を知った。息苦しさは自分の内面のこじれた糸の絡まりであったと、はっきりと感じた。
今、私は自分のことを優先して生きている。自分を大事にし、慈しみ、日々を過ごしている。コミュニティには所属しているし、コーチングも継続している。環境が変わったわけでも、状況が変わったわけでもない。ただ自分の内面が変わり、自分のために生きることを心に決めて生きているだけだ。
他の人には簡単にできることかもしれない。けど私にとっては4年もの歳月を要するくらい、難しいことだった。難しさを乗り越えることができた今だから、こうして文字として綴り残しておく。広い広いインターネットのしずかなこの余白にそっと残しておく。誰かの支えになれば幸いだと願いながら。