「咲さんって とても繊細な人なんですね」
友人にそう言われたことがある。日曜日の朝早い時間の喫茶店で、お互いの感じていることを静かに話し合った際、目の前の友人が穏やかにそう言ったのが心にそっと残り続けていた。
その友人は、自分も人から繊細だといわれることがあると言い、以前は繊細だと言われることが嫌だったという。繊細=弱いというイメージがあったからだ。だけどのそのイメージは、もう自分の中で払拭していることも併せて伝えてくれた。友人からもらった私への「繊細」はけして「弱々しい」と伝えたいわけではないと、彼女は伝えたかったのだろうと思う。私は元々「繊細さ」に「弱い」というイメージがなかったため、「彼女にとっての自分はそう映るのか」という、シンプルな情報として胸に収まったことを覚えている。
それから、おそらく2年ほど経って。2024年の年始、私は自分自身に対して「自分で思っているより繊細なのかもしれない」と自覚した。
2024年1月1日は、石川県の震災があり、羽田空港では事故が遭った。ラジオでニュースを聴く習慣をつけることにしていた私は、朝の早い時間帯に近所を散歩しながら関連するニュースを聴いていた。その日パーソナリティーが伝えてくれていたのは、被害状況ではなく支援物資が届き避難所での生活がすこしだけ前向きに回り始めたということだった。私が行ったことはない土地で、私が今いる東京よりももっと寒い場所で、避難所での生活をしていく人を想像したら何故だか涙が出てきた。ニュースの向こう側にいる人たちの生活が、すこしだけでも前向きに進んだことを想像すると、上手く言えない感情が込み上げてきた。前向きなニュースだったのに、涙を流すなんて変わっているなと思ったと同時に、ああ私は自分で思っているよりも繊細なんだなと感じた。
名前も知らない、顔も知らない、だけどたしかに其処に生きている人たちを想い、すこしの安寧に安堵し、よかったなぁとぽろりと涙が溢れる。綺麗事のように聞こえるかもしれない、偽善的に生きていると思われるかもしれない。
それでも、「私はそういう人間なのだ」ろう。遠くに、だけどたしかに其処に存在している人たちを想像し、どうかすこしでも不安が失くなりますようにと願う。そういう繊細さを持ち合わせて、私は生きている。