以下はNHKで放送された小堺一機氏のインタビューへのリンクである。
ホームドラマ的家族
私は偶然、この小堺氏のNHKインタビューを観ていた。
話の内容は、小堺氏のトークの秘訣なのだけれど、その中でホームドラマについての言葉があった。
曰く、「我が家はホームドラマみたいに会話がない」という相談が増えているというのだ。
これを観ていた私もまた、目からうろこが落ちた気分だったわけだ。
「私、ホームドラマみたいな理想の家族を欲していたの?」
そう気付いて、愕然としたな。
学生時代までは、私は「私の家族は理想の家族だ」と信じていたと思う。
けれど社会人になってから、私の目にはまっていたフィルターが外れた。社会に出て、他の色々な大人の一部を見るようになったからだろう。
今の私の目に映る家族とは、こんな感じだ。
●父はお金にだらしのない面がある人。
●兄はどちらかというと遊び人気質。
●母はかなりズボラ。
しかし、以前の私はこう思っていたというか、願っていたのだろう。
●父は大黒柱として大きな人であってほしい。
●兄は兄弟姉妹を統率するような頼もしさがあってほしい。
●母は包容力でいつも家族を包んでほしい。
思うに、父と兄の欠点を、本当はズボラな母が無理をして隠していたので、我が家は「理想っぽい」家族に見えていたのだ。
少なくとも、私の目にはね。
最後の母の部分は、かなり頑張ったのだと思う。
けれど私はここ数年、我が家の男二人のダメダメさに腹が立ち。
特に数年前に父が亡くなってから際立ってきた、兄のダメさ加減にいら立つことが多かった私なのだけれども。
まあ、この唐突な兄の駄目さ爆発は、どうやらスペクトラムの特性によるものらしいと、最近わかったのだけれども。
ともあれ、この小堺氏のインタビューを観て、そんな私の大きな勘違いに気付く。
私は家族に、テレビドラマの登場人物のように演じてほしいと、そう勝手な我儘を抱いていただけなのだ。
それに加えて、男二人については、よくよく我が家を顧みると、ウチの家系はどちらかというと女が中心に立って回るタイプである。
大黒柱はむしろ女の方であり、だから父がだらしがないのも、この家系に則した性格であると言えるだろう。
兄についても、小堺氏の言葉が心に刺さる。
小堺氏曰く、家に帰るなり玄関先だというのに、
「おかえり♪」
「今日は疲れたよ」
「だと思って、メニューはあなたの大好物よ♪」
なぁんていう怒涛のトークを繰り広げる家族なんていない。
だから思うに、かつでドラマ「ひとつ屋根の下で」で江口洋介が演じたような「頼りになる長男」なんていうものも、また存在しないのだろう。
我が母曰く、長男という存在は祖父母から甘やかされるため、むしろ甘えん坊なダメ人間に育つ確率が高いそうな。
いや、これも極論だろうけれども。
少なくとも「頼もしさ」というのは成長の経過で身に付くスキルであって、長男に生まれたというだけで持って抱ける遺伝ではないということだ。
そして我が兄は、成長過程で「頼もしさ」というスキルをゲットできなかった。
ただそれだけのことである。
ところで、この「頼りになる兄でいてほしい」という願望は、一方で我が身を気付つける刃にもなる。
それというのも、どうやら私は妹として「兄は尊敬しなければならない」という無意識の思い込みがあったようなのだ。
なので兄がダメダメぶりを発揮するのを目にして不満を口にすると、それとは裏腹に「兄を尊敬できない私の方こそ、性格が悪いのではないか?」と、ほんの微かにだけれども思ってしまう。
これがまた、とても私を疲れさせる。
けれど「尊敬する長男」が幻想の産物となれば、この私の心の中の葛藤もまた幻想ということ。
悪口満載な本音で生きていいじゃないか、それが我が家なのだから。
ところでこの「長男」というワードで、私は一つ心配していることがある。
それは劇的に大流行した「鬼滅の刃」の「竈門炭治郎」だ。
私はこの「鬼滅の刃」は全く読んでも観てもいないけれど、普段聞くラジオでもよく話題に上がり、「僕は長男だから」というフレーズはよく耳にした。
そしてこのキャラが妹を救うために我が身を削るようにして成長していく物語である、ということも把握している。
けれどこれは「長男だから」ではなくて「竈門炭治郎がそういう性格の男の子だったから」、身を削っていくのである。
大人であればそのくらいはわかっていて「いや、長男ってだけでそこまでしないし!」とツッコめることだろう。
けれど、この作品のファンには幼い子どもも大勢いるわけであり。
彼らの「長男」像がものすごく美化されて、長男たちへのハードルが上がらないだろうか?
我が身を振り返り、心配するのである。
だから言いたい。
子どもたちよ、長男はヘタレでいいんだぞ!
これもまた、そうかも
我々世代より上になると、「高校を卒業したら一人暮らしをするのが普通だ」と考えているところがある。
しかし、高校生を卒業したばかりの18歳なんて、ほとんどが世間知らずの甘ちゃんだ。
もちろん、距離的に自宅から通えないので一人暮らしをするというパターンもあり、そのために寮付きの大学なり会社なりがある。
だがそれとは別に、たとえ自宅が大学や会社とご近所さんであっても、「一人で生活して自立した生き方をするのが、成人の証」とか言う人が、一定数いるのだ。
この意見、特に団塊の世代に根強い。
実は我が家でも親しくしていた親類のオバサマにそう責め立てられ、十分通える範囲の学校だったのを、兄を大学の近所のアパートに一人暮らしをさせた。
するとどうなったのか?
スペクトラムで常にマイペースな兄は自分の生活を管理できずに遊びたい欲求に負けてしまい、見事に留年したのだ。
おそらくは家から通っていれば免れたであろう事件であり、これ以来そのオバサマとは疎遠になったのは言うまでもない。
ところで、では団塊の世代の方々は皆一人暮らし経験者なのだろうか?
いや、団塊の世代ど真ん中である我が母は、生まれてこのかた一人暮らしをしたことがない。
親元でずっと育ち、そのまま結婚して新たな家族と暮らしているのだから。
それに考えてみてほしい。
団塊の世代が若かりし頃、彼らの全てを一人暮らしさせて賄えるほどの住宅が、日本にあったのか?
団塊の世代の人数は半端ないぞ?
なにしろ我が母の学校だと一学年クラスが二桁あって教室には鮨詰め状態、それが尚且つ午前と午後の二部制登校だったのだから。
それが日本全国だぞ?
いくら高度経済成長の時期とはいえ、そんな膨大な住宅が建てられるわけがない。
家を建てるには土地を整える必要があり、土地は一年やそこらで作れやしないのだ。
では、何故そのような「独り暮らしは普通」論がまかり通っているのか?
これまたテレビドラマであると、私は思う。
当時のテレビドラマは「こんな生活夢みたいだよね」という、現実とは剥離したキャラ像を描いていた。
その中に多くあったのが、若い男女の会社員が一人暮らしをして人生を謳歌する姿である。
これに憧れ、独り暮らしにはこんな夢みたいな生活が詰まっていると思い、我が子には一人暮らしをさせて「夢の生活をする我が子」を自慢したい。
そういう妄想を抱く団塊世代が生まれたわけだ。
しかし一人暮らしをするには、当然家事やら時間管理やらの、当人に一人で暮らせるだけのスキルが必要になる。
それがないままに、「一人で暮らせば、ちゃんとあのドラマみたいに生活するようになる」という思い込みで送り出すと、我が兄のような失敗をするわけだ。
そういう環境に放り込めば環境に適応するだろう、という考えは甘い。
それで適応できるのは才能がある一部だけで、ほとんどは適応できずに堕落する。
つまり、学習しないと人は変われないのだ。
ホームドラマを真に受けるのは、本気でやめような。