これは星達が見ていたある少女の話。
海沿いの町にある少女が住んでいました。
その少女のお父さんはしばらく前に家を出て行ったきりで帰っては来ませんでした。こんな暗い時代ですから珍しい事ではありませんでしたしそれに、彼女は母と2人でいられるのでさして寂しくはありませんでした。
彼女の住むアパートメントの前には噴水と白いベンチがあるだけの小さな広場があってそこからは空と海とがよく見えました。
夜になるとその境目が曖昧になって、まるで星空の中を泳いでいるようでした。
ある日の事です。少女の住む町にサーカスがやって来ました。
砂浜に大きなテントを立て、少し離れた場所には像や虎の檻と団員達の家替わりだという不思議な型のバスが何台も並びました。
海沿いの山肌に、貼り付けたように創られた町でしたので砂浜が一番低く町のどの場所からもそのテントはよく見えました。また田舎の小さな町でしたので街中がサーカスの話題で盛り上がっていました。
少女も話を聞くうちに自分も行ってみたいと思いました。けれど、彼女の家はあまり裕福ではなく日々の生活をしていくのがやっとでしたので、とてもサーカスに行きたいとは言えませんでした。
だから来る日も来る日も、夕方のサーカスが始まった頃に、アパートの前の広場に行っては光り輝くテントを眺めるでした。
広場は大通りと居住区との間にあるので人通りは多いのですが足を止める人はおらずどこか寂しい場所でした。
この日も彼女はベンチに座り遠くのテントと目の前を過ぎて行く人達を眺めていました。
道行く人達は彼女やサーカスの事なんてお構いなし、全く関係ない。と言ったふうにせかせかと家路を急いでいます。
(きっとサーカスなんてそんなに楽しいものではないんだわ。でなければこの人達がこんなふうに無関係でいられるはずないもの)
疲れ切ったようにうつむく頭に光の鈍い目。ふいに少女はいなくなったお父さんを思い出しました。
子柄で猫背で寝癖だらけでいつも不安そうに俯いている。まるで使い古しのコートみたいに頼りない。彼女の中の父親像はいつもそうでした。
辺りが薄暗くなってきて彼女が帰ろうとしたその時、人混みの中に不思議な人影を見つけました。
ボサボサの髪は鮮やかなオレンジでした。猫背で子柄だけれども大きな靴を履いていて背が高いようにも見えます。
顔には白い化粧と溢れんばかりの笑顔。頬には大きな涙が一つ。黄色のズボンに赤いサテンのジャケット。大きな水色の蝶ネクタイ。手にはサーカスの看板を持っています。それは、サーカスのピエロでした。
夕焼けが過ぎて空の遠くの方が紫に変わっています。海沿いの白い町並みにその人影はあまりにも不釣り合いでした。
ピエロは少女に気づくと一瞬固まりすぐに反対を向いて道行く大人達にサーカスの宣伝をしました。
少女は自分には関係ないと思い帰ろうとしました。でもなぜだか足がゆっくりとピエロの方へ向かいます。
癖毛で
猫背で
いつも不安そうで
無意識に足取りが早くなります。
見栄っ張りで
怖がりで
それでも
それでも優しくて
頑張り屋で
私の前では無理して笑顔で…
「ねぇ。私を笑わせてよ」
少女はピエロのジャケットの裾を掴んで言いました。
「君が何をすれば喜ぶのか分からない」
ピエロがおどけた口調で答えます。
「月を捕まえて」
少女は消え入りそうな声で言いました。
「パパなら捕まえてくれたわ」
パパは凄いんだと信じようと…むしろ違うと理解しようと、彼女は無理を言いいます。そんなこと誰にも出来ないと知りながら。
「お安い御用さ」
ピエロは明るい声で答えるとよたよたとあるきながら近くにあった桶を持って来て噴水の水を汲みました。
「ほらね」
「あっ」
ピエロが指差した先では小さなお月さまが水面で優しく輝いています。
「こんなの……ズルだわ」
「僕にはこれが精一杯さ」
ピエロは明るい口調で言いましたけどどこか寂しそうでした。
「そう…この月の赤ちゃんは何を食べるのかな」
「悲しい気持ちを食べるよ。辛いことはみんな食べてくれる」
「それじゃ私には飼えないわ」
少女は残念そうに首を振ると桶をピエロに返しました。
「どうして?」
「辛くても、悲しくても私には大切なものだから」
「そう」ピエロは月を空に返しました。
「それじゃ…明日もここにくる?」
「もちろんさ、僕はサーカスにはまだ出れないからね」
「じゃあ、また明日ね」
少女はそう言って家路に着きました。
ピエロはその後ろ姿をいつまでも眺めていました。どれくらい経ったでしょう辺りが完全に夜になった頃、ピエロはおもむろに桶にもう一度水を汲むと小さな月に向かって話しました。
「あの子は強くなったね。あぁ…お願いだこれは食べないでおくれこの痛みは大切な物だから」