「しずかなインターネット」コトハジメ

sald_ra
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「しずかなインターネット」を始めてみた。

感覚的に「始めたら面白そう」と思ったわけだが、折角最初の記事なので、「コトハジメ」として、「なぜこれを始めたら面白そうだと思ったか?」というところから始めてみようと思う。

前提として。そろそろ入ってくる情報に対して自分の脳が追いつかなくなってきた。今自分が情報ソースとして見ているのはX、いくつかのDiscordのサーバー、そして娯楽用にYouTube。昔はこれに加えてQiitaとZennのトレンドを効率的に確認できるdev1andというサービス、ついでに話題のjsライブラリのランキングサイトであるbestofjs、時間があったらinfoQが出していたWebDevelopmentのトレンドレポートを見ていた。以前はこれで「いっぱいいっぱいだなぁ」と感じていたわけだが、今はXとDiscordで精いっぱいになってしまった。何故か?多分それはAIのせい。

結果として、あんなに情報に飢えていた自分は少しづつ情報の取得量を減らすようになった。知人に「Xはタイムラインを追わず、話題の記事を見るようにしている」という助言をもらったのでそちら側で情報取得はしていて、あとはおすすめをほんの一瞬見て、通知欄を見て終わり。Xで情報取得が減るとXでの情報共有も減る。Xのアルゴリズムのせいか、ポスト量が減るとその分1ポスト毎のインプレッションが加速している気がする。結果、中途半端に1ポストあたりのインプレッションが伸びる謎のアカウントになってしまった。そうなると発言に気を付ける必要が出てくる。なるべく1ポストごとの情報量を多くして、折角色々な人に見られるのであればできるだけ有益な情報を流す。そうしたほうが社会の幸福の総量としては多くなる。なるべく無駄な物を省いて、いらないツイートはやめる。

友人はこの「無駄な」部分を「自我」と呼んでいる。インターネットで何かを出すなら、自我はいらない。自分も極論と思いつつ、どこかのタイミングで自我を出す場所はきちんと選ばないといけないと考える。では、自我はどこに出すべきなのか。

最近、各サイトにアウトプットをするように心がけている。zennは技術記事、Qiitaはカジュアルな技術記事、noteはMeetupの参加レポと自分の告知、そして自分の人生の節目の時の自我の捌け口として。今のところこの運用で間違いないと思っているが、noteがどうにも曖昧なように思う。Meetupの参加レポと自分の告知は、自分が「読んだら有益だろう」と思って書いている。Meetupに行けなかった人用のログでもあるし、告知は自分が良いと思って出している物なのだから、告知はすればするだけ有益と言える。じゃあ自我は?

20代前半の感想は「ライフイベントが立て続けに起きるカオス」だった。「〇〇だから忙しくて、だから諦める」と言いやすい環境で、でも少なくとも自分が言ってた「忙しい」は意外と言い訳かもしれないと気がついた。卒論があるから、就活があるから、新卒で職場に慣れてないから、一人暮らしを始めたから。これらはたしかに忙しい理由ではあるけど、忙しいことは新しいことに挑戦できない理由ではなかった。気がついたときには24とかだった。

自我は自分にとって有益で、あぁ、この時はこう考えていたんだなとか、今自分はこのように考えているのだなとか、自分のモヤモヤした頭の中を明文化してログとして落とし込む作用がある。でもそれは他人にとって有益である可能性は低い。じゃあnoteに自我を出すのは駄目だ。そうすると何処へ?

今まで、実は自我をtxtファイルに貯め込んでいた。節目でない自我はインターネットに載せるべきではないので。

この生活を暫く続けていて気が付いたことがある。自我は「誰かに共有できているかも」という状態にしておかないと段々窮屈になるらしい。

「しずかなインターネット」を見た時、心が躍った理由は「新しい付き合い方ができるサービスだから」という部分にあると、今は思っている。別に興味のない人は見なくても良く、みたい人は見れば良い。無理やりタイムラインに流れることもない、そんな場所は自我を吐露する場所としては(製作者の方がそう思ってなかったら申し訳ないが)都合の良い場所になり得るのでは、と思っている。

これが自分の「しずかなインターネット」コトハジメです。

自我を出す場所なので、折角だからお勧めのアーティストを貼る。

@sald_ra
見ていただいてありがとうございます。