他人軸で生きるのをやめる

sanak
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日頃から他者の評価ばかり気にして生きてるとつかれる。

人と関わると嬉しい事もあるが嫌なことも沢山あり、多分人間の仕組み上嫌なことの方が精神への影響が強い。テクノロジーや経済の発達していない村社会では孤独=死だったため、進化論的に考えるとまあ納得が行く。我々の遺伝子には他者からのネガティブ評価に強く反応する性質が刻まれているのだ。

人から蔑ろにされる、無視される、自分のやってほしくないことをされる。

自分だったら人にそんな態度取らないのに。あれだけ優しくしてあげたのに。

そんなとき、自我や表出したコンプレックスはいわゆる"自己肯定感"を失ったように感じたり、他者を責めたりする。他者への攻撃性は自分自身への攻撃性でもあるので、当然心は傷つく。

自分だけか他人もそうなのかは知らないが、苦しみは容易に脳を埋め尽くし、冷静な思考を阻み、エネルギーを浪費して人生への気力を失わせる。こんなことを繰り返していては生き地獄だ。仏教には「一切皆苦」という言葉があり、意訳すると、人生は思い通りにならず、苦しみを避けることはできないらしい。

望んでもないのにこの世に産み落とされ、苦を与え続けられるのはあまりに理不尽ではないか。

ではどうすべきか。

人の生に絶えず降り注ぐ苦への対処は大別して2種類あると考える。

一つは自我というフィルターを通した認知の歪みを減らすこと、もう一つは苦しみを受ける機会を減らす工夫をすることだ。これらは両方取り組むべき課題だが、前者は世界の本質について考察し、体感し、体得することを繰り返す終わりのない道程だ。根本的に苦痛を減らすためには避けられない課題だが、今回は一旦後者の「工夫」について考えてみよう。

第一にやることは、自分を苦しめた直接的原因について知っておくことだ。

SNSに張り付きすぎていないか。自分のために時間を使ってあげているか。他者から見返りを求めようとしていないか。

まずSNS。通知を切る。開く回数を意識的に減らす。

これが次の自分のために時間を使うにつながる。手癖でアプリを開くのをやめ、余った時間は何に使えばいいか。これは心が掻き乱されないものであれば何でも良い。音楽を聴いてもいいし、アニメを見てもいいし、本を読んでもいいし、何かを創作してもよい。とにかく、他者が介入する余地がなく、自分でコントロールできることがいい。なかでもおすすめは自己研鑽だ。

自己研鑽は最初の目的は人から評価されるためでもいいが、それだけでは続くはずがない。手段の目的化が必要だ。自分は最近仕事終わりにジョギングをしている。苦しくない緩いジョギングだ。別に何かを達成しなければならないわけではない。それは人生も同じ。ただ必要なのは、自分が前に進んでいるという実感。幸福度とは、そのときの状態ではなく方向性なのだ。

さらに、自己研鑽を重ねると他者から何者かとして評価される確率が上がり、以前より良い扱いを受けるかもしれない。但しこれは全く保証されるものではなく、得られたらラッキー程度のおまけ程度に考えるべきだ。

最後に他者からの見返り期待について。正直これは未解決問題だ。現時点で言えることは、見返りを期待した行動を減らすよう意識する、ということしかない。他者から好かれたいという思いに必死で気づかないときもあるかもしれない。そんなときは後から自分のための時間をつくり、少しずつでもいいので見直す。

他者ではなく自分が自分を幸せにする。冷静な心は冷静な判断を産み、正のループを生み出す。全ての問題は実は自分の内面にあるものだ。

この文章はネットで集めた知識や自分自身の経験を基に思ったことを自らの言葉で書き出し、定着させるために綴った。ついでに、もしこれを偶然見つけた誰かが、自分と似た問題に直面し、苦しんでいるのならその苦しみが少しでも減りますように。