寄り添うということ

sandriver
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別にnoteに書いてもいいんですが、あっちはゲームの話を中心に書いているので、せっかくだからここに書いてみています。

私には9歳の娘と10歳の息子がいて、息子の方が一年半ほど前から不潔恐怖(いわゆる潔癖症というやつです)持っています。トイレを異常に怖がり、トイレを出た後に手を洗う洗面台や、汚れを落とすところである風呂場も汚いと感じるようです。トイレに行く度にパニックになって叫び、攻撃的になり、稀に死にたいと呟いて包丁の方をボーッと見たりします。調子の良い時はスムーズに過ごせる時もありますが。

強迫神経症あるあるだと思いますが、恐怖の対象は実際に汚いかどうかは関係なく、本人がそう認識したものが対象になります。なので傍目には全く合理的でなく、私からみて汚いと思えるところにいても平気だったりします。

症状が出始めてからは徐々に学校には通えなくなり(恐怖のトリガーが無数にあります)、今はいわゆる不登校の状態です。私が在宅で仕事をしていて、奥さんも短時間しか働いてないのでなんとか回っている状態です。会社には感謝しかない。

学校に行けない要因は、不登校が長引くにつれて複合化していて、友達に笑われたくない、学習が遅れていてわからない授業を受けるのが苦痛とのことです。彼には以前から失敗を非常に恐れる気質やネガティブ思考の癖がありましたが、不潔恐怖という高ストレス環境下でそのネガティブな面が強く出ているように見えます。

理想的ではない今の自分を受け入れられず、周囲のサポートを素直に受け取れないまま、自分から袋小路に突き進んで苦しむ様を見るのはとても辛いものです。明らかに苦しんでいるのに投薬を拒む息子に対して湧いてくる感情。インターネットの友達が楽しそうに育児をしているのを目にして羨ましい気持ちになったり、なんで自分だけというドロドロが吹き出ることもあります。

この一年半、彼との関わり方について本当に色々な事件が起こりましたが、今のところの私は、親ができることは最低限のガードレールになることとニコニコしていることだけだな、という結論に至っています。

世の中で、相手を理解する、受け入れる、多様性の尊重という言説を読んだり耳にする度に、その行為はお前が頭で考えてるようなふわふわな気持ちの良いものではないぞ、という思いが湧き上がってしまうことが多くあります。自分と違うものを受け入れる、尊重するということは、世間一般のイメージよりも遥かに痛くて苦しくて気持ち悪くて生々しいものです。1人の世界の中でそれら一つ一つが展開されている時には対処が簡単なものが、自分以外の世界、社会と接点が生まれた時、対処の難しさの次元が一つ二つ三つと上がり困難になっていきます。自分の息子が不潔恐怖に由来する全く筋の通らない理屈で自分の娘を攻撃している時、あなたはどうしますか。

おじさんはニコニコしているぐらいがちょうどいいという話があり、私も今の環境に置かれるまでは、そうだよねうんうん、ぐらいの軽い認識でいました。しかし今の私にとっては全く違って、大人がいつも穏やかでいるということは、想像していたよりも遥かに困難で、大切で、重くて湿った切実なことという認識に変わりました。

私には彼の苦しみを取り除くことはできません。話を聞いて、心身の成長を待ち、この世界と自分の世界に折り合いをつけて適応することを待つことしかできません。私には全く理解できない苦しみを想像し、受け入れ、寄り添うこと。そこに現れる心の軋み、変化していく関わりの形。