以下、CoC「ハトヴの晩餐」のネタバレを含みます。
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あれは私がラナの中心部から数キロ離れた森の奥で、母親と共に細々とした生活を送っていた時代の話です。
物心ついた頃から父のいなかった私は、母に連れ立って鬱蒼とした森の中を歩き回っておりました。その頃は今とは違い、鹿らしく植物を好んで食べており……失礼。好んで、というと語弊がある。それしか食べることができなかったのですから、それを好みだと思い込むのも必然でした。
あるとき、母が「暫くここで暮らしましょう」と言いました。それは近くに川があり、植物や魚が豊かに育ち、賑やかさには事欠かない土地でした。母は、私に他者との関わりを持たせたかったのだろうと思います。実際、そこには食事を求めて集まる動物たちが多くいました。私も母も、すぐに彼らと打ち解けたものです。
しかし、この繋がりでさえ食べ物の好みと同様で、選択肢が少なかったばかりにそうならざるを得なかったのでしょう。
住み始めて三日が経った頃、ちょうど母が留守にしていたものですから、私は少し冒険に出てみることにしました。と言っても、川沿いに少し山を降りようとしただけです。あまり人里には近づくなと母に言われていたものですから、ほんの三十分だけと決めて行きました。
しばらくはいたって普通の風景が続きましたが、やがて小屋をひとつ見つけました。当時の私はそれが何のために作られたものなのか理解ができませんでしたが、あれは人間が自然観測を行う際に拠点としていた小屋だったのでしょう。既に打ち捨てられており、小屋の陰には数十冊に及ぶ本が乱雑に置かれていました。
そういえば、と思い出します。私が住んでいるあの一帯は大抵の者が温厚で、何かを疎むことなどなかったが、たったひとつ、随分と馬鹿にされている白鳥がいたのだったと。その白鳥はやけに人間じみていて、気持ちが悪いと。
なるほど、と思いました。きっとあの白鳥はここを訪れているに違いない。その証拠に、本の上には美しい白い羽が落ちているし、いくらかの本にはまるでそれを栞のようにして使っているものさえある。私はその羽が挟まったページを開いてみましたが、勿論なにひとつとして読解することは叶いませんでした。それでも、時たま挟まる空や植物、そうして私たち動物の絵はとても精緻で美しく、私が目にしている世界と人間が把握している世界はまるで違うのだと思い知らされました。そう、思い知らされた、と感じたのです。
私は途端に恐ろしくなりました。
この世界には私の知らないことが、私が思っている以上にあるのだと気づいてしまった。そうして、私はもしかしたら世界という木の先についた葉の欠片も知らぬままに死んでいくかもしれないという事実が、私を絶望の底に突き落としたのです。
まるで穴に落とされたかのように、暫くは茫然としておりました。そうして声をかけられるまで、私は彼女の足音にすら気が付きませんでした。
彼女の第一声は今でもよく覚えています。
「あら、こんにちは。お茶でもいかが?」
彼女は、私がそれまで出会ってきた誰よりも、理知的で、美しい鳥でした。
……ああ、失礼。ちょうど鯖鳥のサイダーが無くなりました。もう一杯いただけますかな。