父方の祖母が亡くなったそうで、なんでもインターネットに書く世代なので日記を書いておく。
父方も母方も祖父は亡くなっていて、曽祖父母の面識はない。父は地方の出身で、私はずっと都内に住んでいるのであんまり毎日顔を合わせていた人ではない。ので、父方の祖父も5年くらい前に亡くなったはずだけど、ずっと実感はない。死んだ実感がないというよりは、自分に祖父がいるという実感がないという感じ。最後に話したのもいつか覚えてないし、確か入院が長くて難しいと言われた期間が結構長かったように思う。亡くなった時の一個目の感想は「あ、今なんだ」だった。長かったねというかお疲れ様というか、こちらから……飛行機の距離からはそれくらいしか思いようがないというか。私にとって父方の祖父は甘エビの人で、お葬式には行ったけどそうなんだって感じだった。父に似た人がいっぱいいて面白くはあったけど、葬儀ってそういう動機で行くもんでもないだろ。だからお葬式に出た時よりも、スーパーで甘エビを見かける時の方が祖父の死のことを考えている。気がする。
母方の祖父の時は実家で一緒に住んでいたし、私は子供で受験生だったのであまり関わらなかったけど結構生活がはちゃめちゃになるくらい入院に付き添ったりしていて大変だったような気がする。母がファザコンだしね。私はその時のことを多分ちょっと後ろめたく思っていて、今でも祖父が川崎の病院で寝ているような気が時々する。そういうのって薄情というか、不誠実なことじゃないかとも思う。そうならないためにお葬式とかがあるんじゃないの?と思うけど、そうならないためにはあまりにも亡くなる前の入院パートと葬儀パートが現実じゃなすぎた。でもほんとにいなくて、体も焼いてお骨になってるんだって。不思議な感じだ。これもしかして私の情緒が未発達ということと関係ある?
死ぬことってこの世では(そして多分あの世でも)二度と会えないってことだ。それってこの世にいてももう二度と会えない人とどう違うんだろう。
父方の祖母には初夏の頃に会えた。検査でこちらに来て、東京の方の知り合いに何人か会ったらしい。多分今日が最後だなっていう挨拶をして、だからわりとわかりやすく……情緒の未発達な人にもわかるお別れができたんじゃないかと思う。悲しいかどうかはまだ、これから。
葬儀には妹と相談して花を出した。親世代の連絡があんまり円滑じゃないというかあんまり意思の疎通ができないんだけど、少なくとも花は式場に連盟で飾られる予定。式場に手配したからね。注文内容の確認の連絡も来たし、多分大丈夫。その花だけ見たかった気がするけど、葬儀ってそういう動機で行くもんでもないだろ。我々の花だけめっちゃ浮いてたらどうしようとも思うけど、もう二度と会わない人って死んでるのと一緒だしな、とも思う。
いつの間にか途切れてしまうものはこの世にたくさんあるというかなんか気付いたら途切れてがちな人生なんだけど、こうやって明確にこれが最後と思うのは初めてだな。多分、今後は父が亡くなった時くらいしか接点はないだろう。多分もう二度と行かない、珍妙な空港とかのことを考える。私と血の繋がった人間たちの集団のことを考える。私はすぐに自分に血縁者がいることを忘れるけど、飛行機の距離の場所に私と4分の1くらい同じ血が流れている人たちが暮らしていることを考える。多分時々考えたほうがいいよね。甘エビを見た時以外にも。
母方の祖母はまだ生きてるけど、もうボケていて私を見ても母を見ても誰だかわからない。祖母とは一緒に暮らした期間が長くて、私より無神経な人だったのでかなり色々思うところがある。あるけど、もうボケていて文句を言う人もいなくなってしまった。肉体は生きているけど、私が色々と思うところを抱いている対象の人はもういないと感じる。この世にいてももう二度と会えない人って、死んでるのと何が違うんだろう。
明日(もう今日)が通夜で、明後日が葬儀だそうだ。あと二晩だけこの世にある、私のおばあちゃんの肉体のことを考える。遠い場所にあって、二度と会えない。ここまで書いて、私はやっと少し泣ける。