タイトルだけで既に言い切った気分になってしまっています、こんばんは。有です。
この作品は、歌舞伎という【芸の上手さや美しさよりも血のつながりが重要視される世界】で、芸に魅せられ、【芸事のためなら暴力的なお稽古も是とし、自分以外の誰かの人生を滅茶苦茶にすることも「覚悟の上」と飲み込んできた】男の物語であるように感じています。
テーマ:血
物語の冒頭で、若き喜久雄が見様見真似で演じた女形の芝居に才能を見出し、父親を失った彼を育てることに決めた半二郎。
『二人道成寺』で、実の息子である半弥には「血が守ってくれる」、部屋子である喜久雄には「芸がある」と鼓舞したことからも、半二郎がその才を認めていたのは明らかで。女形としての芸の才は実の息子である半弥よりも上と認め、代役として抜擢したのも納得。
妻(半弥の母)が強く反対したことや、幕が上がる直前、手が震え準備もままならない喜久雄が、半弥に対して「怒らんと聞いてくれるか。俺な、今一番欲しいの、俊坊の血やわ。コップに入れて、俊坊の血ぃガブガブ飲みたいわ」と吐露したことからも、この世界では血筋が重要で、半二郎の行動は異例中の異例であることは明らかでしたね。
血が重要視される世界で、血の繋がった自分よりも、血の繋がっていない、誰の子とも知れない人間が代打を務める=実質的な後継者と受け止められても仕方がないような事をされて、半弥が逃げ出すのも仕方がないですよね。
喜久雄と半弥の間に、簡単には埋められない溝を作ったのは、他でもない半二郎です。
そんな半二郎が、持病によって吐血し、意識が朦朧する中で、ひたすら名前を呼び続けたのが半弥であったというのは…すごく残酷。
人間なので仕方がないとはいえ…結局、血のつながりなのだと。
あの状況で「すんまへん」としか言えなくなった(代打として選ばれてしまっただけなのに)喜久雄を見つめる万菊さん冷たい目。
このシーンで「ああ、コレ、血がテーマなんだ」と分かりました。衝撃的で残酷ですね。それまでの切磋琢磨する青春っぽいシーンが効きましたね。
ここがあったからこそ、最終的に『半・半コンビ』が復活したシーンが輝くわけではあるのですが…。
人生を滅茶苦茶にされた女性たち
どこまでも女性がモブのような扱いをされる作品でした。芸のために全てを捧げる覚悟をした男に人生を滅茶苦茶にされる…という役割を担わされた女性が3人いましたね。
藤駒、彰子、そしてあやの。
喜久雄が【半二郎】を襲名した日。あやのに「何を犠牲にしてでも、芸を極めたい。悪魔にそう願い、聞き入れてもらえた。悪魔と契約した」と語りましたね。その後の喜久雄の人生を示唆していて、ゾッとするシーンでした。
一瞥もくれない喜久雄に、健気に「お父ちゃん、お父ちゃん」と追いかける隠し子のあやの。
「お父ちゃんの邪魔したらあかんよ」と、あやのを抱っこしてどこかへ消えてしまった後、終盤の回想シーンまで一切登場しなかった藤駒。
恋慕の情につけこまれた挙句、父親の後ろ盾を失い、自身の身も心も救われることなく喜久雄の辛い時期を支え続けた彰子。
この作品の女性達は、【芸事は誰かの犠牲があって成り立つものである】という価値観の象徴でした。
特に彰子を抱いているシーンでの「俺も覚悟決めたで」と言っている喜久雄の目は完全にキマっていて怖かったですし、この覚悟って「歌舞伎の世界で生きていくためなら何でもやる」であって、彰子を幸せにすることではないのですよね。
正直観ていて気持ちの良いものではなかったです。
終盤の、老成した喜久雄と成長したあやのが会話するシーン。このシーンは、二通りに解釈できるかもしれないな…と思っています。
一つ目は、あやのによる【呪い】の解除。芸に取り憑かれた喜久雄が、芸のために犠牲にしたあやのからの言葉で救われるというもの。
散々な人生を歩んできた喜久雄が、半弥と和解し素晴らしい作品を残し、世間に認められるまでの流れを見ているので、「良かったなあ」という気持ちが無かったと言えばウソになります。
ただ、納得はしきれません。だって、人の人生を滅茶苦茶にしたんですから。
芸が美しかった…ただそれだけで、【芸事は誰かの犠牲があって成り立つ】という考え方を肯定するなんて、私はイヤですから。納得しきれません。ここだけは、正直…モヤモヤが残ってしまっています。
そしてもう一つの解釈。芸の美しさは、憎しみをも超えてしまうのかもしれないというもの。
正直、ちょっと無理があるよなとは思っています。笑
でも、私の第一印象はコチラだったのです。きっとあやのは、喜久雄が、歌舞伎が憎いはずです。芸のために母である藤駒と自分の人生を滅茶苦茶にされて、憎くないハズがないと思うんです。
そんなあやのに「日本一の歌舞伎役者になった」と言わせてしまう…それが芸、美というものなのか、と。私は思ったんです。
「許したくない、許せるハズがない。それなのに、美しいと思ってしまう」…。そんな事を可能にしてしまうのが芸であり、美であり。それらの持つ恐ろしさでもあるのかもしれないなと感じました。
テーマ:美・芸に魅せられるということ
印象的だったのが万菊さんの「歌舞伎が憎くて憎くて仕方がないのだろう。でもそれでいい」というセリフ。半弥に対して向けられた言葉ではありましたが、喜久雄にも刺さっていたのではないかなと思っています。
半弥が戻って来て、週刊誌に自身の過去や隠し子のことを暴かれ、歌舞伎の世界に身を置くことができなくなって、それでもなお女形の仕事をし続けた喜久雄。
女形の彼を見て本物の女だと勘違いした男性と、それを茶化す仲間によって暴力を受けた後、喜久雄が屋上で狂ったように踊っていましたね(これ、全然関係ないんですが、歌舞伎って観客が舞台上に乗り込んで滅茶苦茶にしたり、芸能人は河原者・河原乞食と蔑まれたりしていたことも踏まえて入れた描写なのかな~とか考えましたね~)。
この時、喜久雄は心底歌舞伎が憎かったのではないかなと思っています。
屋上で何かに取り憑かれたように踊る喜久雄のあの異質さは素晴らしかった。それほど歌舞伎が憎くて仕方がなくて、だけどそれほどまでに歌舞伎に魅せられてしまっているのだと感じられました。
「そこまでして何になる?やめてしまえ、そんなもの」と言いたくなってしまうほどの悲惨さが、ボロボロになった彼の姿にはあって。【美・芸に魅せられる】ことの恐ろしさを強調しているようで。
たとえどれほど傷ついても、それほどまでに魅せられてしまった彼は決して歌舞伎から逃れることはできないのですよね。
逃れられないからこそ地位を失った後、人でなしとなじられても仕方がない事…彰子を利用し、あらゆる場所で余興として女形を演じ続け、半弥ばかりを優遇し自分を冷遇した万菊からの「会いたい」にも応えたわけで。
血筋がないにも拘わらず、才能で国宝まで登り詰めた喜久雄。
『鷺姫』を演じる彼は、あまりにも美しくて。まるで本当にそこに女性がいるような、幻想的で、この世のものとは思えないお芝居が素晴らしかったですね。
『鷺姫』を演じきった後、ずっと探していた景色に出会えて、「ああ、美しいなあ」と彼がこぼしたとき、泣きそうになってしまいました。
きっと、「日本一の歌舞伎役者」という言葉を受けて、心のつっかえが無くなっていたのでしょうね。血や、芸のために犠牲にしてきたもの…そういったしがらみ全てが無くなって、彼の心も身軽だったからこそ。
これまで何度見てきたであろう景色を、「ああ、美しいなあ」と思えたのではないかなと感じています。
おわりに
哀しくて苦しくて美しかったですね。お芝居が特に。映像も美しくて。そういう意味で、かなり好きな部類の作品でした。
ただ、この作品を物語として評価することが「芸・美のために犠牲にする」文化?価値観?の肯定に直結しかねず、手放しで称賛すると誤解が生まれそうだな〜と思っています。
物語のテーマ(芸・美のためなら、人間性を捨ててしまえる恐ろしさ)を踏まえて観るなら、人を犠牲にする歪さが残る文化を描く必要がありますし、描かれているからこそ最後の主人公の一言が光るわけですが。決して、そういう芸の在り方・考え方を肯定したいわけではないと、強調しておきたいです。
とにかくお芝居が、映像が素晴らしかったですね。
歌舞伎を劇場で観たのは一度きりなので、歌舞伎について語れることはなく…吉沢亮さんや横浜流星さんのお芝居がどれほど凄いものなのかは分からないのですが。
あんまりにも美しくて、息を吞むシーンが多かったです。なるほどだから名作だと言われるのか、と感じました。
ぜひまた歌舞伎を観に行きたいですね。