1/5: PERFECT DAYSを見るかもやもやと考えている。
結論としてはそのうち見るけれど、すぐには見ない(何の結論にもなっていない)
嘘の中にもまがい物とそうでないものがある。嘘=虚構は結局のところ架空のものでしかないのだけれど、混ぜものの割合によっては犬も食わないまがい物に成り果ててしまう。ずっと真夜中でいいのに。のACAねは「上辺の私自身なんだよ」の中でこう歌う。
紛い物が心地良いなんて
上辺の私自身なんだよ
精巧に作られたまがい物はとても美しい。表現の形によってはそれは、強く心を打つのだろう。けれど、わたしはどうしてもそれを認めたくない。
こんなことを考えるはめになっているのは、映画PERFECT DAYSに関する巷の評判を聞いたからだ。周囲の映画好き・映像好きはこぞって「2023年で一番良かった」と言う。見に行きたいといっている人もわたしのまわりに多い。けれど制作陣に関するなんだかモヤモヤする評判も耳にする。
けれどそれらは多数派の前にはかき消されてしまうみたいだ。見ないで批判するのもなんだかおかしいから、このレビューの書き手のようにきちんと見るべきなのだけれど、どうにも気が乗らない。どうやったって映像が良ければ、何らかの説得力を押し付けられてしまう気がするから。
とはいえ、よく考えると、巷の人が好きな「ていねいな暮らし」だとか「清らかなる暮らし」なんていうのはわたしはどうにも好きじゃない。人間をとても矮小化していると思う。自分が捉えられる範囲のものを大切に受け止めることに何の価値があるのだろう。
ミニマルな生活に憧れるのは大変結構なのだけれど...そこには過去も未来もない。あるのは紛い物だけだと思う。俗世はいつだって騒々しいのだから。俗世から逃れることはできません。絶望的なほどに。
身も蓋もないですけれど、そんなに清貧に憧れるならば出家でもしたらどうなのでしょうか。とはいえ、寺の中も結構大変なようですけれど。美しい映像美にまとめられた清貧なるイメージを接種するのは一種のセラピーであり、自慰行為だとおもうから、苦しいならば接種するのは止めないけれど...。
なんていうか、紛い物の清貧さに憧れるから苦しいのだと思いますよ。
みたいなことを悶々と書いているけれど、結局見ていないのでなんともいえません。とはいえ、わたしはていねいさなんてくそくらえだと思っている。生活の全てが荒廃していようとべつに構わない。だって結局、どんな悲劇が起ころうとも、人生を進めていくしかないのだから。なんにせよ、見ないと何も言えませんね。近い内に鑑賞しようと思います。気乗りしないけれど...。
1/X: 春ねむりのライブ@吉祥寺
ガザの話をした後の最後の三曲は魂が入っていたように感じた。会場はとても狭かった。地下アイドルのライブを見ているような感覚があったけれど、地下アイドルのライブというものをわたしは知らない。地下っぽさって何故に感じるのだろう、言語化できていない。LIQUID ROOMのような会場に比べると匿名性が低いのが地下っぽさなのかもしれない。
「地下」という言葉が、メディア露出を中心とした活動をするアイドル(メジャーアイドル=地上アイドル)に対する明確な差別的ニュアンスがあったため、業界内・ヲタク間で論争があり、近年は「インディーズアイドル」「ライブアイドル」「リアル系アイドル」という言い換え語を用いる傾向がある
https://dic.nicovideo.jp/a/%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%AB
潜っている感じ、顔のわかる者同士が集まっている感じ=地下であると感じる。インディーズかどうかとは一概に関係はないと思うけれど、オーディエンスの「濃さ」みたいなものも地下感の一つなのだろうな(実際、今回のライブは初参加のひとはそれほど多くなかった)
ケン・リュウの「カルタゴの薔薇」が恐ろしく良かった。五秒のエミュレーション、コピー、そこに意識や人格があるか。行きながらにして脳をスライスされる。約束された復活があったとして、その行為は残虐か否か。わたしたちは突きつけられる。
昼間会社で宇宙の始まりの話になった。SF作家なのにインフレーション理論とかあんまり知らない。いまヒッグスの本を読んでいる。
タイトルがよい。
1/11 ROMY
恵比寿でROMYを聞く日。結論、非常に良かった。should not be so strong, enjoy my life。うたという距離感で聞くのにちょうどいいフレーズだ(ていねいな暮らしへの忌避感はそれが表現された媒体への近さによるものなのかもしれない)
1/12: トーク・トゥ・ミー
期待のホラー。アリ・アスターの新作はびっくりするほどつまらないらしいので、こちらには期待している。