AMBIENT KYOTO、アンビエントによりあぶり出される土地の持つ文脈の重み、日々是アンビエント

猿場つかさ
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京都という媒介を通じて、わたしの心は改めて『聴くこと』へと開かれた。

「アンビエント」は「周囲/環境」(surroundings)という意味でね。でもある意味、その考えはベストなものではないんだ、というのも、環境は我々を「取り囲む」ものではなく、我々の内部にあるもの、我々を貫通してなかにはいってくるものだから。つまり、我々は呼吸する―――息を吸い込み、息を吐き出す。それは新たなミクスチャーだよ(笑)。

『アンビエント・ジャパン』 p20 interview with Daviud Toop

何気ない音に対して開かれることは、日日是アンビエントということだった。

「日日是好日」は、表面上の文字通りには「毎日毎日が素晴らしい」という意味である[1]

そこから、毎日が良い日となるよう努めるべきだと述べているとする解釈や、さらに進んで、そもそも日々について良し悪しを考え一喜一憂することが誤りであり常に今この時が大切なのだ、あるいは、あるがままを良しとして受け入れるのだ、と述べているなどとする解釈がなされている

AMBIENT KYOTOへ行ってきた。結論から言いうと、京都新聞ビル地下の展示も、京都信用金庫旧厚生センターの展示も、あまりにも良かった。今年ベストの音楽体験の1つだった。行ってよかった。行く前はライブでもない音楽の展示を見るためだけに京都に行くのは...と思っていたのだけれど。

秋の京都にゆくのは久しぶりだった。今回のメインディッシュはAMIBIENT KYOTO、2箇所ある展示とアンビエントを聴くためだけに設置された「しばし」という場所をそれぞれ1.5時間時間ずつ滞在することにして(その時間を費やす価値は十分にあった)、あとは紅葉を楽しんで、お気に入りのお店で懐石をいただいて...、和菓子を食べて、京セラ美術館に行って、塩田千春の展示を見て...みたいな欲張りパックを考えていたのだけど、足りない、時間があまりにも足りないのだった。

夜行バスでゆくことに決めていたので、光悦寺 → 源光庵 → (行けたら)大徳寺 → 京都新聞ビル → 京都信用金庫旧厚生センター → 岡崎公園 → しばし → 懐石食べる → 東京、というのがざっくりとした計画(というかイメージ)だった。アンビエントを楽しみたかったので、人混みはどうしたって避けたかった。そもそも平日に行きたかったのもそれが理由だった。

光悦寺/源光庵のアンビエンス

ほとんど人のいない光悦寺は本当に風光明媚だった。お茶をやる人の間では、本阿弥光悦(作と伝わる)の茶碗が多くの茶人を狂わせてきたことは有名で、たとえ世界が火山灰に埋まってしまって、何千年先に作品だけが掘り返されようとも、特異点として認識されると思えるほど独創的なお茶碗をたくさん残しているのだけれど、彼(と本阿弥家)の創作の根っこのがこういう自然と人工物の調和にあったのかと思うとなんだか納得がいった。

それほどの静寂があって、それほどの美しさがあったから。

日本の美が自然との調和にあるという言説については、わたしは前々から欺瞞だと思っている。盆栽にしろ、作庭にしろ、ある人間中心の美学に対して自然をはめ込んでいくものだからだ。征服すべき対象でないという意味では西洋に比べると...みたいな話はあるかもしれないけれど。とはいえ、このレベルの調和にはどうしても超越性を感じざるを得ない。この美しさは、人間の美意識の外側に到達している。時間よ止まってほしい、わたしもこのまま、この瞬間に止まっていたい。あたかも美を通じて、自然がわたしの身体の中に入ってくるかのように。その意味で、光悦寺はAMBIENT KYOTOのよい入り口だった。

墓所を巡るのは好きだけれど、敬虔ではないわたしは故人に敬意を払うことはほとんどない。イランのシーラーズでハーフェズ廟に行ったときも「なんだか普通の庭園だな」と思ってしまったくらいで、特に感動しなかった。(ハーフェズの詩を行きの飛行機で読みふけっていたにも関わらず!)

けれど、本阿弥光悦の墓は格別だった。

思わずひざまずいて感謝を述べてしまうほどに。ただの墓とは思えないほど、墓へ至る道から墓石から、墓を取り囲む自然までが全て、風流だった。このお方にはこの墓が必要だった。この墓に込められている美学を、価値あるものとして未来に伝えていきたい。柄にもなくそんなことを思わせる力があった。

意図せず墓参りをしてから、お隣の源光庵へ、血天井と悟りの窓、迷いの窓が有名なお寺である。鳥居元忠が討ち死にする経緯はへうげものでも読んだので、印象には残っていた。討ち死にの跡の血天井は生々しい、たしかにこれは、残して供養しないとという気にさせられる。

悟りの窓はなんだか、一番いい位置で窓を写真に収めようとする列ができていて、本末転倒感があったけれど、丸窓かわいい〜♡みたいな心境を一度ふむというのも悟りには必要なのかもしれない。丸窓自体よりも、その窓の向こう側に写る景色がわずかに動いていること、枠があることで動きがより意識されるのが面白いと感じた。窓があることで、此方と彼方は確かに分たれて、時間の流れが違うかのように錯覚できる。

一つの境目を介することで、ただの外部が風景としてわたしたちに語りかけてくるのだろうか。

バスで移動しようと思ったけど、なんだかあまりにも静かでいたい気分だったので歩くことに。源光庵から歩いて降りると大徳寺によるのは無理だなと思ったけれど、歩くことの方を大切にしたかった。

ウォークスでレベッカ・ソルニットの言うように、ただ歩く、ことは困難なことで、それでも歩くことで初めて分かることがある。京都を歩くことは特別で、それは東京よりも歴史の重なりがあるからだろう。雲上人の誰かがここを歩いたかもしれない。歩くだけで、足の裏が身分や時代を超えていく気がするから。

茶人としては大徳寺をスルーするということは、利休さん(利休さんとか「さん」づけで呼ぶのである...茶人は)のお墓はほなまた...という感じ、すんませんという気持ちで通り過ぎるということなのだ。

しばらく歩いてLUUPを見つけて、和菓子屋をめぐりながらasyncを聴くために丸太町へ向かった(これはいかにも東京者っぽい書き方で、丸太町だとx軸しか指定できない)

地下で聴くasync:京都新聞ビルの地下

asyncは何度も聞いたことのあるアルバムだったけれど、前評判通り聞いたことのない音が聞こえた。前の方で聞いたり、後ろの方で聞いたり、坂本龍一の音楽の中を(静かに)自由に動き回りながら聞けるというのが素晴らしかった。音は外部でありながら内部だった。

空気の振動として、自己でない他者がたてるものとして、それは確実に外部のものだけれど、この空間で、音は内側にあるのを意識させられた。35台のスピーカーが設置された地下空間は非常に無機質なのに、それ故に(思考のようなソリッドな)意識を感じさせる。ソリッドに物質した音空間の中をあるくことで、わたしたちはあたかも自分の思考の中を遊歩するうように感じるのかもしれない。

明確なビートがないからこそ、そこには外部の規律性が乏しい。なにかのジャンルとして聞かなければならないというモードから耳が遠ざかって、音を音として聴くことができる。あたかも一つの、自然かのように。

常設してほしいレベルのよさ。

京都新聞ビルを出ると松栄堂からいい感じのお香が漂ってくる。これもまたアンビエンス。

ディープなアンビエント空間を抜けると岡崎の街が音楽になる

ここで京都人にバカにされそうな誤算が生じる。「え!? 岡崎って七条くらいじゃないの??」地図を見ながらわたしが口にした言葉がこれだ。元々、京都信用金庫旧厚生センター(京都駅近く)にいってからしばし(岡崎)に行こうとしていたのだけど、予定が完全に狂ってしまった。しばしは時間指定の予約制なので、やむを得ずしばしを楽しんでから残りの展示を見ることに...。

岡崎へ向かいがてら亀末廣で最中を買い、古道具屋を巡った。思わず文化財を保護してしまい。完全に予算オーバー。

しばし、は行く前は別にいかなくてもいいかなと思っていたのだけれど、行って良かった。アンビエントを聴くために作られたディープでドープな空間だったし、提供される薬膳のお茶もとても美味しくて(一日を通して和菓子しか食べていなかったのでめっちゃお腹が空いていたのだけれど)身体が温まった。薬膳茶は買って帰ろうと思ったけれど少し高かったので(文化財保護をしたこともあり)お見送り、でも買いたかった。

行きに読めなかった(夜行バスなので...)アンビエント・ジャパンを読みながら、いい音で流れるアンビエントに耳を澄ませる。音と一緒に身体に取り込まれるお茶は本当に心地よい。

適当にいい時間をすごしてLUUPを漕いでいると、川端に差し掛かる前くらいで、町中からアンビエントが聞こえた。一定のリズムで、美しい音がなっている。誰が鳴らしているのだろう? そう思ってあたりを見回すと、火の用心の柏木の音だった。静寂に近い喧騒の中、控えめに鳴るその音は、確かにアンビエントだった。音がアンビエントになるかどうかは、ある意味あたりまえだけれど、心の持ちようなのだ。どんな場所でも、心の持ちよう次第で音を楽しむことができる。つまりこれは、日日是アンビエントだ。

勝手にお茶とアンビエントを紐づけつつ、川端の道を鴨川沿いに南下して京都駅の方へ。LUUPのチャリは京都では非常に役に立つけれど、車輪が小さいのでコントロールが大変でした。

音を通じて環境の側へと干渉する:京都信用金庫旧厚生センター

この会場は信じられないくらい音がいい! それだけで行く価値があった(ピカピカしててきれい!みたいな酷いレベルの感想だ)

Corneliusには色々思うところがあるのだけれど、最新アルバムは文句の付け所がなかったし、展示が本当にすばらしかった。アンビエントをマテリアルにする試みが面白いと言うか..。写真はなんだかよくわからないと思うのですけれど、アンビエントの表す音世界を物質化して環境を立ち上がらせると不思議と違和感がないというか...。非常に心地よい。

環境の側へと干渉することで、リスナーの内側と外側のつなぎ目になる。つなぎ目ができることで、音と言葉がさらに内側へ入ってくる。これはなんだか、意識を別のレベルに飛ばすような危険な感覚で、いつまでも浸っていたいと思わせる中毒性がある。閉館間際まで展示を楽しんで、ショップへ寄ったら店員さんが坂本龍一x大貫妙子のUTAUを勧めていた。うんうんとうなずきながら外へ、これでメインディッシュはお終い。

名残惜しいけれど、とても満足だった。

写真いろいろ

タヒみあるな〜と思ったらそうだった。外国人の方々が写真めっちゃ撮ってました。

参考にしたもの

how much world do you want?

別冊ele-king アンビエント・ジャパン (ele-king books) ムック

@sarubatsukasa
SF作家 / 「海にたゆたう一文字に」で第6回ゲンロンSF新人賞を受賞 /小説すばる陶芸SF「長い鰭で未来へと泳ぐ」掲載