日記 1/18 ~

猿場つかさ
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1/28 ヴァースノベル研究会

アニアーラを途中までしか読めていないので再読しなければいけない。人と話すのは楽しい。リモート参加だと画面の向こう側のあらゆるものがジャギって見える。通信が乏しければわたしたちはまともに世界を見ることもかなわないのだ。

1/27 登頂のロマン/ロマンス・哀れなるものたち・劇場

石川直樹:ASCENT OF 14 ー14座へ@日比谷図書文化館へ行った。石川直樹が石川淳の孫であることを今知った。ただの写真展ではなく、初登頂というパイオニアワークが帯びるロマンが展示されていた。8000m峰14座の初登頂を記したテクストの登頂のシーンの一節と共に、石川直樹の写真が掲げられる。高い山はどうしてかく美しいのだろう。最高峰、目線の下に他にいかなる地面もない場所へ甘い誘惑。そこに至った瞬間の記述は、なんとポエジーに溢れていることだろうか。

そのずっと後ろに、また岩頭が一つ見えてくる。このほうが高い。そして、その岩頭の上に仲間の姿が見えた。あれが目的地なのだろう。もう間違いない。午後〇時三〇だった。岩塊を脚掛けあがりで登った私は、ここでまたすっかり息を切らせてしまった。だが、やがて、肉体的な苦しみは、限りない幸福感の中に沈み去った。頂上、仲間、私のこれまで送ってきた登山家としての生涯で最もすばらしい瞬間だった。

あいかわらず風はない。ただ、南の方から、ときどき薄い霧が頂に向かって流れてくるだけだ。だがこの霧もじきに散ると消えて行く

(マックス・アイゼリン 横川文雄訳「ダウラギリ登頂」ベースボールマガジン社 1963)

14座が登頂されたのは60-70年くらい前の話だから、生々しいロマンというよりは、歴史の一部なのだと感じた。大いなる使命を果たすことの達成感、人類史の1ページを刻むことの高揚感、それらは現代社会にまだ存在しているのだろうか。フロンティアの欠乏、未来の欠乏、狭窄しているのは視界か、それともわたしのたましいか。こういう展示を見るたびに、問いかけられる。

哀れなる者たちも見た。結論としてはとてもよい映画だった。どのような形であれ、生み出されたあとの世界に未知なるものを見出していくことで生誕を赦すことができる。神が人を赦すのではなく、おこがましくも人が神、ひいてはこの世界を赦す映画だった。その赦しのおこがましさに心打たれ、わたしは涙した。そうだ、わたしたちは誰に赦されるでもなく、この世界を、生まれたことを肯定することができる。たとえ姿をそっくりそのまま引き継ぐような残酷な科学の原理の飲まれようとも、わたしたちは何物をも背負わずに立つことができる。

わたし個人としてはベラが性の快楽に身を委ねることは「溺れていく」とは感じなかった。そもそもそんなにありふれた性の実践ばかりが提示されるので、ソドムの市のようにもっと過激である必要があるとすら思う。ノーマルな性ばかりを提示するのは、本作品で否定する「良識ある社会」に寄りかかっていることにならないだろうか。

1/26 労働に削られる・暗唱するということ・外見を褒める

リリースがあるとはいえ、労働に削られるのはなかなかにしんどい。一週間ぐらい本当になにも書く気にならなかった。作業者としては並列の思考ができるけれど、責任を取るということに関してはなかなかそうもいかないから、わたしはまだ未熟なのだなと思う。

物書き仲間とあつまって中華を食べた。毛沢東スペアリブが大変美味しかった。ジェントリフィケーションのいい匂いが漂うミヤシタパークのお店は満席で、終わったあとはシーシャを吸いに行った。文体の話をした。古の文化人が伊勢物語や平家物語や勅撰和歌集を頭に叩き込んでいつでも参照できるようにしていたように、「良い」ものをあたまにいれて諳んじられるようにしておくことが良い文章・文体を身体化するこつなのではないかという話になった。たしかに、文体の優れている某歌人の方はいろいろなうたを諳んじられるようだから、諳んじて神経に刻んでおくのは大切なのだろう。

「趣味もないわたしが仕事に没頭できて幸せ」というニュアンスの素朴な投稿を見た。素朴すぎて気持ち悪かった。素朴なのが良さとして許されるのはモノだけだ。ココロまで素朴でどうするのだ。素朴さに鉞を投げつけられると誰しも傷つくというけれろ(ほんとうに?)。素朴な地獄と意匠に満ちた地獄ならば、わたしは意匠に満ちた豪勢なる地獄の方に叩き込まれたい。素朴なものは透明化して、抵抗ができなくなるからだ。素朴な生、ありふれたような生、ありふれたようなこころ、忌避したい。

同性・異性を問わず「わたしのどこが好きなの?」と聞かれたとき、外見的な特徴ばかりを言ってしまう(った)ことがある。その質問自体が茶番であるのに答えに価値付けをしてしまうことが不毛だと思うのだけれど、外見的特徴の方が偶然性に満ち溢れた固有性のあるものなのだから、褒めて当然だと思う(対象をモノのように見過ぎだろうか?でも別に、一般的な美醜の話をしているわけではないのだけれど)。良いとされる心には固有性がない。やさしさとかおもいやりはありふれている。心により発露する行動は褒めるには頻度が低すぎる(あのときなになにしてくれたよねとかって、それだけで「好き」となるべきものだろうか。むしろ、そんな些細なことにだけ依存している「好き」って不安定で恐ろしいと思う)。善とされる行動の方はこんなにも規格化されてしまっているのだから、むしろわたしは悪の方を愛したい。どんなに残酷なものであれ。「やさしさ」を感じた行動を知ることで、何をされると嬉しいのかを聞きたいだけなのだと思う。本質的には、といっても、わたしにとってされて嬉しいことなんてほとんどない。(遊びに)誘われる。とか話してくれるだけでいいのだ。

the smileの新譜が出た。Radioheadと差別化ができてないのが気になるけれどとてもよい...

1/18 朝活

朝活で小説を書くといいというのを聞いて朝活をした。とはいえ、朝謎のコーディング業務をこなさなければならなかったので、想定よりも30分ぐらい使える時間が減ってしまって残念。某S氏みたいに一つの記事にまとめたほうが振り返りやすいのだろうかなどと思いながら雑な日記をしたためている。人形町のスターバックスの地下には常に静かな時間が流れていて、渋谷なんかのスタバのやかましさとはまるで違うので心地よい。

昔、西新宿辺りのHOTEL?の一階部分にあったスタバがとても好きだったのを思いだす。厳かなる古い建築に組み込まれた最新鋭のビジネス、回転率のために座りづらくなっている椅子も古さのためだと錯覚させる空間の力がある。どこででもサーブされるコーヒーがあそこでならとても美味しく感じられる。結局のところ、味ではなく、情報なのかも知れない、わたし達が食べているのは。

朝執筆仕事をすると労働で疲れきってしまっても、その日は何か書いたということになるからとても良い。この習慣は続けよう(といいながら、続かないのが常である

1/19 月見ル君想フ

Sturle Dagslandを聞いた日だった。聞いたことのない音により完全に心が異化してしまった。言葉で表現できない。単純に語彙がないせいもあるけれど、わたしが普段聞いている音楽の外側にあるものを聞いてしまったせいだ。だから、日常のあらゆる音楽が別の音色を帯びてしまっている。今年が始まったばかりなのに、すでに今年No.1なんじゃないかと思えるくらいのライブだった。Manami Kakudoも没 a.k.a NGSもよかった...。

タコの心身問題を読み進める。タコの身体はジャズのように統制されるらしい。脳は命令をする。けれど腕がそれに従うかは分からない。事細かに指示をしない。中央集権的な脳がいるのではなく、手は手で独立して動く。タコはずいぶん知的だ。食堂の周りに神経系が集中(脳がある)というのも非常に興味深い事実だと思った。食べるのがはばかられる? どうだろう。肉食は消費としてはあまりにもよくないものだと思うけれど、殺して食べるということは最高の美徳なんじゃないかと思う。

SFプロトタイピングのしごとをしているときに「人間は食物連鎖の頂点から降りたほうがいい」という意見が出た。わたしはそもそも人間が頂点にいるという認識がなかったのでほむほむと思っていたけれど、一般にはそういう認識が普通なのだろうか。まあとにかく、都市というのはもっと人間を捕食する生き物を住まわせたほうがいい。だからクマさんたちが都市に出てきているのはとても好ましいことだと思う。

1/20 横浜

横浜の友人宅へ。そごうの一階に横浜らしい和菓子屋さんがたくさんあって楽しかった。ヤフオクでいくつかの道具を落札してしまいえらく反省。

1/22: 散歩しないと身体が腐る

リモートワークは嫌いじゃない。けれど歩かないで一日を終えることに降らすトレーションを感じる。一日家にいると夜くらいにはなんのやる気もなくなっている。歩かない方が疲れる身体をしている。歩きながら書くことができたらいいのに。足で書くことができればもっと執筆できる。

ちょうどいい距離に読書向きのカフェがあるのは幸いだ。すごく居心地が良い。適度なノイズも入る。ChatGPTを使って軽く翻訳のたたきを作る。スペイン語を久しぶりに読む。楽しい。Pilar Quintanaの雌犬を読む。ちょうど半分の所で大きな変化が訪れるつくりなのは彼女のストーリーテラーとしての旨さだろうか。

皇女ですら22で社会人になる哀しみよ。皇族はうたでもよんでいればいいのだ、なんて言わないけれど、高貴なるものを労働に従事させるのは流石に高貴さのむだづかいではないでしょうか。「使う」みたいな話も不敬なのかと思うものの、そもそも高貴さを定義した瞬間に不敬さは発生してしまうものだ。用とはかけ離れた高貴さや崇高さとは程遠いいまの天皇制よ。万世一系の毒がこのまま回るとどうなってしまうのか。Y染色体にサヨナラして、クローンを大量に作った方がいい。

@sarubatsukasa
SF作家 / 「海にたゆたう一文字に」で第6回ゲンロンSF新人賞を受賞 /小説すばる陶芸SF「長い鰭で未来へと泳ぐ」掲載