東京にある「全て」,あるいは「リモート」

ささくらり
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私が初めて東京に行ったのは,たまたま部活の大会で寄り道することができたときだった.羽田空港から直通の秋葉原駅に到着し,JR東日本特有のベルの音を聞いたとき,ようやっと東京という地についたんだという感想を持った.

正直なことを言うと,はじめて秋葉原に行くことが決まったとき,たしかに私はそれなりにはワクワクしていたが,そのワクワクは別に,東京への羨望であるとか,そんなものではなく,単純に普段行けない都会に行くことができるというワクワク感だったような気がする.

でも,駅のホームに降りたとき,私は本当に驚いた.

ここにはすべてがある,そう思ったのだ.

駅のホームに降りただけで,すべてがあると思えた,などとは荒唐無稽な話である.でも,本当にそう思えたのだ.あそこにはすべてがあった.

あの日から,私にとって東京は,あこがれの街になった.私にとって「東京に行く」という言葉は,「(ただ)普段行けない都会に行くことができる」という意味ではなく「すべてがある街に行く」という心持ちに変わったのだ.あそこにはすべてがある.私が普段持っていない全てが.

読者には何も伝わっていないと思う.しかし私の東京への羨望は,このように表現するほかない.

東京には,というか関東にはすべてがあるのだという感情は,今でも変わらない.正直,あの新宿や秋葉原なんかという沢山の人がいる場所に自分が住むなどということは想像はできないし,現実的に考えて経済的にも心理的にも辛いものがありそうではあるが,それでも,ちょっと電車に乗れば,それほどお金をかけずに東京に出られるという文化圏に住むことができるか,または地方に住んでても良いのだけれど,いつでも思い立ったときに東京に行けるほどの経済力なんかを持っておきたいものだなあと思う.大学生である時分には,到底達成できそうにはないが.

東京に行ったときの「すべてがある」という感覚は,初めてのときと,今ではその「すべて」の指す範囲が徐々に変わっていると思う.物質的供給過多の東京に憧れていたときから成り代わって,今は「人間に会える」ことが憧れになっている.強い人だとか,会いたい人だとか,尊敬できる人だとか.そんなものはみんな東京にいる.その人たちに会えるイベントは東京でしか起き得ない.

人間がみんな東京にいるのだ.

インターネットが発達して,新型コロナウイルス感染症が流行して,リモートという言葉が流行した.今の時代,別にインターネット越しにも会えるじゃんと言われる.けどそうじゃないんだ.そうじゃないんだよ.決まってそう述べるのは都会人ばかりだと勝手に思っているけれども,そうじゃないんだ.私はあなた達にリアルで会いたいんだよ.あなた達にとっては仕事かもしれないし,東京圏の人間が殆どを占める人間関係において,そこまで地方の人間に対する愛情は深くないのかもしれないけれど,あなたたちがハイブリッド開催と銘打って東京でやるイベント,東京でなら積もり積もった色んな話ができるかもしれないけれど,それはリモートの僕たちには届かないんだ.すごい人が教えてくれるココだけの話,感情の機微,ふとした時にするしぐさ.遠隔地にはそれがない.だから私は東京にはすべてがあるのだ,と述べるんだと思う.

でも,私たちの感情の機微とか,ココだけの話とか,ふとした時にするしぐさとか,そういうのも都会にいるあなたたちには届いてないものね.ただ,私にはそれがあるのを知っていて,都会のみんなには,それを気にもしていないのがわかる.私には,それが一方通行の感情のようでさみしい.すべてがあると,やっぱり気付けないものもあるのかもしれない.

だから,あなた達には,いつか会いにいってやろうと思うのです.

@sasakulari
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