私らしさの生きにくさ

sasira
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あと一か月くらいで、17年過ごしたこの実家ともお別れ。

比較的、自由に生きさせてくれた家族には感謝しないといけないなと思う。

別に、進路を反対されたわけではないし、むしろ「さくらっぽくていいじゃん!」と言ってくれて、一般的な家族の揉め事とかはなかった。

普通に家族とは喋る時間も多いし、土日も家族でお出かけも多かった。

父と母が喧嘩してるところは人生で一回も見たことがない。

習い事の帰りは、いつも迎えにきてくれた。私は家に着くまで、今日あった出来事をずっと話すから、それを母はいつも楽しみに、夜遅くてもいつも来てくれた。だから、高校時代の私の人間関係は、一番母が詳しい気がする。そして、今の私の感覚をスッと受け入れてくれるし、すごくありがたかった。

感謝すべきことはたくさんある。

行きたい大学に行かせてくれることは本当に感謝すべきことで、恵まれていることだと頭では分かってはいる。

でも、心からはまだ思えない自分がいる。そして、早くこの家を出たいという思いさえある。そんな自分が少し嫌にもなるけど。

私は、反抗期もなかった。でも、高三の夏くらいから、この家を出ていきたいと思う瞬間が増えた気がする。

父とは普通に仲は良い。いまだに父のバカみたいなモノマネやギャグにずっとツボっている笑 

だけど、高校になって、なぜだか話す頻度は減った。母に比べて情報共有を出来ていないからか、母には通じたことが伝わらなかったりすることが目立つようになった。高2までは別に良かったけど、受験期はそれが本当に辛かった。志望理由が書けない時、相談には乗ってくれるけど、逆効果でしかなかった。他人に理解されないことは、別にいい。だけど、「家族」というラベルは、「私を理解してくれる存在」って思っちゃうから、理解してくれない時は、異常にしんどかった。

そして、「さくらっぽい」という言葉が自分を縛ることを感じ始めた。

行動することとか、生き方に対しては、「さくらっぽい」で今のところ支障はない。

でも、趣味だったり、好きなものだったり、好みは変わっていくわけで。

例えば、「この服買いたい」に対して、「それ、さくらっぽくないね」って却下される。

別に大したことじゃない。自分で買えばいいことだし。

だけどそれって、親の価値観と子どもの価値観は一緒っていう前提が残ってるんだろうなって。

両親はよく訂正してきたと思う。私は、性格的に大人っぽい人間だったから、両親の価値観には基本賛成だったし、幼い頃も、そんなに怒られたことはなかった。でも、弟は両親の価値観とは合っていなかった。だから、よく怒られてた。でも、それはその子の意見を尊重してないと気づいたらしく、「昨日はごめんね」「あれは、お父さん/お母さんが間違ってたね」と言ってる風景を目にするようになった。

最近、父と話していた時に父が言っていたことだけど

親って、子育ての正解もわからないし、自分の子だからこそ、似ている部分があるからこそ、自分と同じ感じで扱っちゃうんだと。だから自分が後悔したことは、させたくないみたいのが発動しちゃうらしい。自分とその子は違う。その子はその子だ。それが大事だったんだろうな。と。

両親はそうやって、その子をその子として見ようと努力しているのも知ってるし、私も十分理解してるつもり。

だけど、さっきの服の話みたいに、どう努力しても、相手を無意識のうちに尊重できないことってあるよな。って思う。

私はこれから、もっと多くの人と出会って行くんだろう。

そして、価値観も変わっていくんだろう。

だからこそ、特に両親と私の「さくらっぽさ」の認識は今よりズレていくのかもしれない。

ちょっと怖い。でも、常に今の「さくらっぽさ」を理解してくれる人と関わっていければいいのかなんて。

そして、その逆もそうで、今の周りの友達たちも変わっていく。

だからこそ、その変わっていく姿を受け止められる自分でもありたいよなって。

難しいことではあるし、できないのかもしれないけど、そのマインドは持っていたい。