Mad Max~Furiosa: A Mad Max Saga/監督:George Miller

satosansan
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公開:2024/6/8

マッドマックスの新作が公開されたけど、マッドマックスシリーズは今まで1つも見たことがなかった。怒りのデスロードすら見ていない。なので、今回は1作目から全て見ることにした。

1作目のマッドマックスは、オーストラリアで当時社会問題になっていたバイキーギャングを取り扱ったものだった。和訳だと暴走族になっていたけど、正確ではない気がした。彼らは違法薬物を取り扱ったり、銃撃戦が起こって死亡者が出たり、ギャングの方がニュアンスとして合っているように思う。その問題は公開から40年以上たった今でも残っていて、ここ数年でも抗争によって死者が出たという記事が見られる。

バイキーとは第二次世界大戦後に活発になったバイク乗りのサブカルチャーである。

オーストラリアでは「バイキー」と呼ばれているようだが、少なくともバイキー・クラブを見る限りでは北米のバイカーとの違いはほとんどなく、やはり長髪に刺青の白人を中心として、多種多様な意味を持つパッチ「カラーズ」を縫い付けたヴェストの着用や、ハーレイ・ダヴィッドソンの所持が最低条件となっている。

一般的には総本部(マザー・チャプター)の総会長(ナショナル・プレジデント)、各支部の会長(プレジデント)、財務官(トレジャラー)、武官(サージェント・アット・アームズ)、そして「ラン」を取り仕切るロード・キャプテンなどの階級に分かれている。

その強面ぶりを生かして自動車窃盗、銃器密売、管理売春、詐欺など様々な犯罪にかかわっているが、最大の収入源は覚醒剤であり、オーストラリアの総供給量のうちの約75パーセント以上をコントロールしているとの推測もある。

引用元:オーストラリア-1 バイキー・ギャング

2作目のマッドマックス2では、戦争によって世界が荒廃していって、バイクは自由の象徴になった。より速くより遠くに行くにいくためにバイクがあって、走るためにガソリンを奪い合う。奇抜なメイクや衣装デザインとド派手なアクションの裏に、家族を失いあてもなくマックスの哀愁があって質感がある映画だった。

3作目のサンダードームは命を繋ぎ、記憶繋ぐこと、つまり歴史がテーマになった。2までにあった物理的な距離を自由として定義したのに対して、種としての繁栄をもって時間的な距離を求める流れになったのは納得できた。ただ、中盤から出てくる謎の部族が受け入れられず、楽しめるものではなかった。意図は理解できるけど単純に面白くないと感じた。

4作目の怒りのデスロードは、サンダードームのテーマを昇華しきったタイトルだったなと思う。時代を経て信仰の対象となったV8、限られた寿命の中で自ら命を捨てるウォーボーイ、産む機械として搾取される女性。死後何が残っていくのか死後の何を残そうとするのかが様々な視点で描かれていて、歴史を強く感じる作品だった。特にウォーボーイのカルト的な信仰は、命を繋いで歴史を作るというテーマを歪んだ解釈で表現していて新たな視点だったなと思う。産む機械として搾取される女性をかつてギャングに家族を奪われたマックスが救う構成が納得できるし、1から続いているマックスの孤独を癒す要素にもなっているのも良い。集大成だなと思う出来映えで、話題なったのも納得だった。

スピンオフで5作目のフュリオサは、1作目であるマッドマックスに回帰した作品だった。再びバイキーギャングと復讐劇へ。本作のヴィランであるディメンダスは、死の間際に復讐に囚われたフュリオサの破滅を予言するが、怒りのデスロードでのフュリオサが起こした反乱によってそれは否定されることになる。フュリオサにおける「ディメンダスに対する復讐劇」から「イモータン・ジョーへの反旗」に至る流れは、サンダードームで急に提示された人間を「種」として捉える視点について、よりクリーンで明快に描写されているように感じる。復讐劇から始まった物語が何故歴史へとテーマを取り扱い始めたのか?という点について遡及的に理解できるようになり、構図としてとても綺麗になったよなと思う。

ジョージ・ミラーは、小島秀夫との対談で「私の好きな比喩は『映画はタペストリーである』」と語っているが、マッドマックスはその思想通りの作りになっていた。映画内での描写のディティールはもちろん、作品を跨いだテーマ性についても深いをディティールを感じることができ、比類なき才能がなせる業だなと思う。