先行上映。正式な公開は5月らしい。
タイトル通りの映画で、テーマは一貫している。ホロコーストを題材にしつつ、アウシュヴィッツ強制収容所を直接的に描かずに「無関心」であることの残酷さを表現するという実験的な作品である。
本作のキモは音響だったな、と思う。日常生活の裏で鳴ってる物音に対してまるで気にも留めないヘス家族。裕福で理想の暮らしだからと、隣で何が起きてるかも顧みずに引越しを拒みさえする嫁のヘートヴィヒ。その異様で不穏な音が空間で鳴る感じが怖くて、映画館で見ることがとても重要だった。シューゲイザーはライブで轟音で聴くに限るのと同じで、体験に差が出そうな作品だなと思った。
内容は酷く退屈な映画だった。上記のあらすじを辿れば、表面上はそれ以上のことは起きない。他に比べて文脈を読み取る力と教養が求められる映画だった。例に漏れず自分も教養がないので、仕込まれている表現がまるで分からず眠いとすら思った。
SNSやレビューサイトを見る限り、本作は絶賛されている。メッセージを伝えるべきであろう無関心な人たちが切り捨てられていて、関心のある人たちがそれを良いと持ち上げる構図になっている気がして、どうなんだろう?という疑問があったりもする。
オッペンハイマーと同じ年に本作が評価を受けたのは、意義深いものを感じる。高い評価を受けながら広島長崎を描かずに批判を受けたオッペンハイマーと、ホロコーストを描かずに評価を受けた関心領域は対照的なものだった。
バーベンハイマーは、日本とアメリカの原爆に対する関心の差が露骨に起きた出来事だった。自分は義務教育レベルでしか知識を有さないけど、アレは不味いなと感じた。論理的なものではなくて倫理的な拒否感があった。原爆の父をポップに消費する無邪気さは、関心領域で描かれるヘス家族の日常風景と似ているような気がした。今思うとアレは無関心の暴力性を肌で感じる出来事だったんだな、と思う。
一方で、世界で巻き起こっている様々な出来事に関心を持った結果、猛り狂って暴走するたちの暴力性にも直面することも少なくない。何に関心を持って何を発するかは正しく選択しなきゃなと思いつつ、インターネットは今日も活発。