何かと話題だったので見た。戦争の事は関心が薄いので良く知らない。文系だったので物理は履修してないし、必修だった科学はとても苦手だった。
多数の登場人物が居て混乱するという前評判を目にしたので、予習として以下の2つの記事を読んだ。
実際、前評判通り物理学者がめちゃくちゃ出てくる。物理をかじってたらアガりそうな感じはしたが、自分は知識が全くなかったので、読んでおいて良かったと思う。
米国での公開当時は、原爆投下について直接的な描写がないことが話題になっていた。
被ばくについて明確に表現がされていたのは、広島の爆撃後のオッペンハイマーの演説である。戦争の勝利に沸くアメリカの聴衆を目の当たりにしたオッペンハイマーは、トリニティ実験で目にした核爆発と彼らの熱狂が重なり、犠牲者の姿を想像する。
数万人の犠牲を目の当たりにしてもなお熱狂する人々に対して、核爆発と同様の残酷さを感じるし、現代の価値観で見ると当時の異様さが目立つ良いシーンなのだが、オッペンハイマーが想像した犠牲者の描写自体は観客が見ていられるレベルまで綺麗にしているよなと思う。
見れたものじゃない現実を見れたものにしているから、被ばく者の姿を目にしたことのある人は違和感をおぼえるのは無理もない。人によっては矮小化されていると感じるかもしれない。あの映像が仮にオッペンハイマーの想像の産物だとして、彼が思い浮かべる被ばくの姿があれだったのかという疑問も浮かんだ。
「広島、長崎、そしてアメリカ国内にもいる被ばく者がヒューマナイズされる(人間性を与えられる)ことがないまま、加害側の人間だけが『実はこんな苦悩があったんだ。罪の意識に苛まれていたんだ』とヒューマナイズされてしまって良いのでしょうか。
一方で、このシーンに対してノーランが不誠実だったかと言われるとそうではないように思う。被ばく者の役を自分の娘であるフローラ・ノーランを起用し、次のように語っている。このシーンをどう表現するかについては苦悩したと見られる。
重要なのは、究極の破壊力を作り出せば、それは自分の近くの人々、大切に思っている人々をも破壊してしまうということだ。これは、わたしにとって、それを可能な限り強いやり方で表現したものだと思う
個人的に印象に残ったのは、原爆の投下目標都市について話し合っている目標検討委員会のシーンだった。ここで東京大空襲での被害者数を10万人と言及している上に原爆で予測される被害者数は数万人に及ぶと明言されていた。また、原爆の投下対象から京都を除外するシーンは「京都は文化的価値が高い。」「私も新婚旅行で訪れた。」とブラックジョークのニュアンスが強くなっており、不快感を強い。かなり悪辣に描かれているように思う。
このシーンについては、補足として以下の記事を読んだ。
登場人物数に対して知らない人が多すぎたので、鑑賞後に色々と漁っていたのだけど、題材が題材なだけにインターネット上にテキストが大量に落ちていた。
ノーラン自身が、本作はドキュメンタリーではなく、自身の解釈であると語っている。印象的だったシーンや人物については、自分で文献を辿っていくまでがセットの作品なんだろうなと思う。
“It’s not a documentary,” Nolan said. “It is an interpretation. That is my job. I think it’s narrative dramatic filmmaking.”
「これはドキュメンタリーではありません。」「これは私自身の解釈です。これが私の仕事なのです。私はこれを劇的でナラティブな映画製作だと考えています。」
例えば、先ほど目標検討委員会で京都の除外を進言したヘンリー・スティムソンに対して、自分は不快に思ったと言ったが、以下のような記事も存在する。
東京大空襲の数日後、スティムソンはグローブズを呼んで原爆投下の候補地はどこかと尋ねた。グローブズはなかなか答えなかったが、スティムソンが「この件のボスは私だ」と強く迫ると、ようやく目標は京都だと話した。だいぶ前に京都を訪れたことがあるスティムソンは、あそこはだめだと言った――日本文化の中心地を破壊してはならない、リンカーン記念堂を破壊するのと同じことだぞ。それ以来、スティムソンは原爆のことが頭から離れなくなった。彼は日記の中で、原爆を「あの恐ろしいもの」「おぞましいもの」「あの悪魔」と呼んでいる。京都はだめだとグローブズに命じた日の夜、なかなか眠れなかったステイムソンは日記にこう書いた。原爆は世界文明を「破壊するのか、それとも文明を完成の域に高めてくれるのか」 。この兵器は「世界平和を実現する手段」になりうる。いや、「フランケンシュタイン」なのかもしれない・・・・。