紙の日記が続かない

satsuki
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そういえばブルースカイのフィードにしずかなインターネットの投稿を拾えるものがあることを思い出して、最近ぽつぽつと眺めています。ここは、本当に日記や覚え書きみたいに使っている人が多い気がするので、いろんなところでいろんなひとが生活をしている、という当たり前のことが感じられてなんだかおもしろい。知らない人の日常のほうが案外フラットに読める気もする。自分もそういう感じで日常の何でもないことを書きとめるような場所に出来ないかなぁみたいなことを考えて登録したことを久々に思い出しました。まあ続いてないんですけど。

なにげない日常の記録、なら、別にインターネットに書き残す必要はなくて、もっとローカルな場所とか、それこそオフラインで持ち歩く紙の日記とか手帳とか、そういうものでも構わないはずで、実際ノートとか手帳とかに日記のようなものを書こうと決意するタイミングも周期的に訪れるのですが、なんかこう…だめで、私には向いていない、という気がします。読み返すと恥ずかしくなる。食べたものとか買ったこととか、そういう事実だけを連ねてるタイプの記録は全然平気なのですが、感情を書き出すとだめ。数ヶ月後になんか死ぬほど恥ずかしくなって手帳ごと捨ててしまったりする。それで年に3回ぐらい手帳買いなおしたことがある。あまりにも愚か。

たぶん、実際に誰かが読んでいるかはあまり関係なく、「誰かに読まれる」ことを前提に形にすることが自分の中でそれなりに大事なのかなという気はしています。ここの投稿とかは案外読み返しても平気。なんなら大昔の個人サイトの日記とかでてきたこともあるけどそれはそれで微笑ましさすらあった。これが紙の日記ならたぶん破り捨てていた。いやまあそのファイルも処分はしたんですけどね。誰ともわからないぼんやりとした対象に向けて何かを書く、ということのほうがたぶん感覚としては慣れてというか馴染んでいて、だって昔は本当に、いつだって見知らぬ誰かに向けてもっと馬鹿みたいな勢いで近況を報告していた(これはぜんぜん私だけではないはずだと信じているし、Xやブルースカイを結局ずっと辞められていない時点で本質的には今も変わってないのかもしれない)

もちろんブログとか、こういう記事とか、人に見られることを多少なりとも意識した言葉は、どこかで自分の本音とは離れたきれいごとになる、というのも事実ではあろう、と思います。でもなんとなく、そうやってきれいなかたちのものだけ残しておくほうが良いのではという気も最近はしていて、ちょっと極端な話ではあるけれど、嘘が混じるという意味では、感情を言葉に移そうとした段階で、ただ誰にも見せない前提で紙に書き出してるんだとしてもどこかで嘘とか虚飾とかごまかしは入るんだろうし、あとは、他人に見せたくないと思うような本音は正直自分に対しても開示する必要はない気がする。自分でも納得のできる範囲で、きれいな形にまとめて言葉にして、それを「本音」ということにできる方が己の精神衛生にもよろしいのではないかな、みたいな。

ゆるく追ってるVTuberのひとが、Vとして、というよりはたぶんインターネット上の自分の振る舞いとして「自分が一番かっこいいと思うことをやってるし、思うことを言ってるから、かっこよく見えて当然なんだよね」みたいな事を言っていて、それが本当に好きなんですけど、実際大切なことだよなぁ、とずっと印象に残っています。なんとなくだけどそのひとは、インターネット上だけでなく現実的な人間関係の中でもそういう振る舞いをできるひと、なんじゃないかなと思っていて、そうじゃないとあの感じは、たとえ配信の上だけだとしてもでてこないような気がする。私にはずっとそのひとは、そういうひとに見えている。

自分の本音、みたいなものは実はそんなに大切ではなくて、こうありたいみたいな自分にとっての理想を明確にしてそこに自分を近づけていくみたいなことのほうが本当は大事なんじゃないかな、ということを最近は特に強く思います。めちゃくちゃ立派な聖人君子みたいな人格を理想にして近づくために無理しすぎるみたいなのはもちろん不健全なんでしょうけど、あと、その理想が他人に押し付けられたものだったりするときも無理のほうが強く出てしまうんだろうけれど。だからこれも危うさのある行動指針ではあるんでしょうが、自分が現実的に目指せるラインの「かくありたい」という理想をできるだけ明確にしていけるのがいいのかなぁ、とか。 

考えつつも私にはかくありたいという理想が特にあるわけでもないのですが。あえて言うなら過度に攻撃的にならず、悲観的にもならず、穏やかにフラットに生きていきたい、というのがここ数年のテーマなんだろうな。