ぴったりと足に合う靴について

satsuki
·

先日、新しい靴を買いました。

新しい、といっても今まで履いていた靴とまったく同じかたちのものを買いなおしただけです。パンプス、靴擦れが怖いので新しいものを探したり選んだりするのがもう面倒になってきて(どんなに店で試着してオッケーだと思っても買ってから履いて外に出ると靴擦れするので、店頭で数歩歩いた程度で何が分かるのか、という気持ちを抱いています。最低限のサイズ感が合ってるか以外なにもわからなくないですか?)最近はもう同じものを何足も履き潰すようなスタイルになってきてしまっています。履き慣れていて、歩くのも比較的楽で、別にぜんぜん凝ったデザインでもなく、くたくたになるまで履いても罪悪感のないお値段のもの。今履いている分がくたくたになりすぎてふとした瞬間脱げそうになったりすることが増えてきたので、そろそろ買い替え時かなぁと思ってアマゾンを覗いたらセールで安くなっていた。ちょうどいいと思って買い換えました。まあ安くなったタイミングでしか買っていないのでいつものお値段なのですが。

買うのは何度目になるかももう覚えていない、もうめったなことでは靴擦れしないはずの、履き慣れた靴です。そのはずなのですが、おろしたての数日間だけは、それでもやっぱりちょっと靴擦れしてしまう。あれなんでなんだろうな、やっぱり素材が固いのかな? 最初だけは試運転みたいに、家の近所でちょっと買い物、ぐらいの外出を何度か経験させないと(物理的に)痛い目をみる。いつも靴擦れを起こす場所は決まっているので、そこに絆創膏を貼って予防したりもする。靴だけではなく服も鞄も、新しいものはちょっとぴしっとしすぎていてうまくからだに馴染んでいない、という感じがあって、そのぴしっと背筋が伸びる感じが必要な局面は存在するとは思うのですが、必要ない時ははなるべく楽な方がいいよなぁ、という気持ちのほうが強いです。部屋着とかもくたくたであればあるほど良いような気がしてしまう。度を越したくたくたは逆に着心地悪かったりもするのですが。


マルグリット・ユルスナールという作家の作品を私は1篇たりと読んだことはなく、それでもユルスナールの名前が特別に印象的なものである理由は、須賀敦子の『ユルスナールの靴』という本が大好きだったからです。すごく素敵な随筆集。はじめて読んだのがいつだったかはもはや忘れたんですけど、以来いつかユルスナールの著作も読んでみたいと思いながら結局未だに読めていません。一生読まない気すらしている。それはともかく、その本の中に「ぴったりと足に合う靴さえあれば、どこまでだって歩いていける」というような文章が出てくる。ユルスナールの著作から須賀敦子が引用していた文章だったと思います。

私はこの、ぴったりと足に合う靴、にももうずっと憧れ続けているのですが、実際そんなものはこの世に存在するのだろうか、という疑問もあります。なんせ履き口の大きさよりも足の幅というのはたいてい広く、その狭い履き口に無理やり足を押し込める、という過程を経ないとそもそも靴を履くことはできないはずなので。紐靴とか、ジッパーのついたブーツなんかはそういう構造的問題を解決するために存在するんだと思いますけど、ぴったりと足にあった靴、という表現はなんとなく、そういうギミック的なもので無理やり足に合わせるものではなく、ただ無造作に足を入れてもひっかかりもつっかえもなくするんと足に沿うような、そんな靴のイメージです。パンプスとか、ローファーとか、できるだけシンプルなかたちの革靴であってほしい。もはやこれは願望でしかないですね。


きちんとしたお店で足を測ってもらったり、オーダーメイドで靴を作ってもらう、みたいな経験をすれば、この、靴が「ぴったりと足に合う」という感覚を知ることはできるのかもしれません。でも、靴なんて基本的にはどんどん履き潰していくもの、という考えで生きた期間が長すぎるのもあって、さすがに靴にそこまでコストをかける気持ちになれない。憧れているくせに。あと、私はぴったりと足に合う靴というものに憧れてはいるけど、同じぐらいそれにたいして、ちょっと怖いというイメージもあります。

小川洋子の『薬指の標本』がすごく好きなのですが、この小説は、タイトルで取り上げられているのは薬指なのに、内容的には「ぴったりと足に合った、あまりにも合いすぎた靴」に主人公が体と思考を侵食されていくようなお話でした。わりと最近読んだ、大濱普美子の「フラオ・ローゼンバウムの靴」という短編も、いただきものの、なのに不思議とぴったりと自分の足に合った靴、に行動をコントロールされてしまう女性の話。靴にまつわる奇妙で怖い話、他にも何かあった気がするな、という気もしつつぜんぜん思い出せないのですが、よく考えればこの手のお話のルーツになっているのは童話の「赤い靴」なのかもしれない。履いたが最後、本人の意志を無視して死ぬまで踊り続けることをやめさせてくれない恐ろしい靴の話。

赤い靴に、履いた瞬間ぴったりと足に沿うような感覚とその陶酔感が描かれていたかは覚えていませんが(陶酔感はさすがに書かれてなかったのでは、とは思う)魅惑的な靴としては書かれていたような気がする。魅力的で恐ろしい呪いの靴の話、けっこうある気がするんだよな。同じく童話の「シンデレラ」は、靴自体の魅力とはまたちょっと違いますが、それでも決して足に寄り添ってはくれない硬質なガラスの靴に自分の足を沿わせるために狂気的な行動に走る登場人物たちはある意味では靴に操られていると言えるかもしれない。言えないかな? わからないけれど、これもまあ、怖い靴の話ではあるでしょうか。さすがに強引か。ぜんぜん関係ないのですが、最後に慌てて走って脱げてしまっているのだから、ガラスの靴はシンデレラの足にすらぴったりと合ってはいなかったのではないか、と思う。まあ素材がガラスであれば、ぴったりとなんて無茶なんですが。


靴というモチーフの何が人間にそう思わせるのかはよくわからないのですが、結局誰しも「靴なんて結局どうあがいても自分の足にはちゃんとは沿わない」と思っていて、だからこそそれがぴったりと足に合うということに悪魔的な魅力と恐怖を感じているのかもしれません。というのはぴったりと足に合う靴をうまく探せない人間の負け惜しみでしょうか。でも、自分の進む方向すら自分で決められなくなるぐらいなら、靴に関しては、合わない部分を強引に履き潰してでも自分に沿わせるぐらいの主導権を手放さないほうがいいのかもしれない。それはそれとして靴擦れは痛い。なんとかならんかなぁ、と思いながら、今日はまだちょっと固い靴を手懐けるためにも散歩に行く予定です。

どうか靴擦れしませんように。