この間、旧Twitter現Xのなかで「情緒の奥行き」という言い回しを見かけて、使われてる文脈とかそれで主張されている意見そのものは素直に頷けるタイプの話ではなかったんですけど、この言い回しだけはちょっとおもしろくていいな、てなってしまったのでした。すごいざっくりいうとバイタリティに溢れてる人って情緒に奥行きがない、みたいなこと言ってて、ニュアンス的にはなんか人間的にうすっぺらそう、みたいな、つまりは悪口なのかなって感じだったんだけど。
これはごく最近、ゆるく追ってる配信者(音楽をやっていて作詞とかもする)が、作詞難しいという話のなかで、めちゃくちゃ雑に要約すると「それがいいとか悪いとかじゃないけど、たとえば学生時代にしんどい思い出とかがある人のほうがこういうことには向いている気がする」みたいな話をしていました。そのあとでも自分にはそういう経験あんまないからなぁみたいな話を続けていて、たしかに普段の配信などなどを見ていても、たぶんこのひとは場合によっては情緒に奥行きがないと評されてしまうタイプの、つまりは一般的にバイタリティに溢れてる側に分類されるタイプの人なんだろうなという感じがある。この文脈でこの話をすると悪口みたいになってしまうな。やばい。違うんです私はパワフルだったりバイタリティに溢れていたり行動力のある、なんというか、生きる力が強そうな人に憧れがある(なぜならその何もかもが私にはないから)のでぜんぜんそういう意図ではなく、ただ確かにそういう思いついたら即実行タイプのひとってなんも考えてなさそうって言われがちだよねみたいな。なんも考えてない人なんていないはずなんだけどね。
苦労してるとか、しんどい経験をしているということが、必ずしも人間的な厚みを形成するとは思わないんですけど、何かをつくる人、つくろうとする人が、人生のどこかの地点でそれなりの挫折とか絶望とかを経験している、ということはやっぱり多いんじゃないかなとは思います。順風満帆でなんのなやみもなく生きてきた人間は(そんな人間が果たして本当に存在するのかは別として)誰かの作った切実な創作物を必要とすることなんてないような気がするし、切実にそういうものを必要としたことがないひとは、それを自ら生み出す側に回ろうとも思わないんじゃないかな、みたいな気持ちがいつもある。でもこれは、大袈裟に言えば創作物に命を救われた、みたいな経験がある人間に特有の、創作活動とその成果物への、なんというか、過剰な期待とか理想とかのせいなのかもしれない。これが創作ではなく表現みたいな話になってくると、もっとなんか原始的というか本能的な人間の欲望なのかなーって気がするので、そこの線引きがどこにあるのかは自分でもよくわかんなくなるんですよね。お絵かきとかおうた歌うのが嫌いなこども、いない気がするもんな。
ちょっと話は変わるんですけど、嬉しいとか楽しいとかハッピーとか、そういうポジティブな気持ちに比べて、悔しいとか苦しいとか辛いみたいなネガティブな感情は、自分の知っている底に応じた想像力の限界みたいなものがどうしても存在する気はしてしまう。これは私がどちらかというとそこそこハッピー寄りの人生を歩めているからで、絶望感しか知らないような人にとってはポジティブな感情のほうが想像力が及ばない、みたいなこともあるのかもしれないんですけど、それでもやっぱり、自分が想像できない範囲の他人の苦しみに対する無頓着さから逃れられる人ってそうそういないんじゃないかな。小説とか映画とかは特に顕著だと思うんですけど、重たいテーマを扱っていたり、どんよりとした空気のもののほうが、「高尚な」作品として評価が高くなりやすい傾向がある気がして、以前にはそれがなんか納得いかないなーと思う時期もあったんだけど最近はちょっとわかる気がするようになってきた。物語としてであっても、目の前に突き突けられないとそういう現実もあり得るということが想像できないみたいな状況は、世の中にあまりにも多いので。
話を戻します。私はインターネットを彷徨って文章を読むのがもはや趣味みたいなところがあるのですが、ちょっといいな、とか、気になるな、とか、印象的だなぁと思う文章を書く人が、精神科に通っています(あるいは、いました)とおっしゃっているということが最近けっこう多い。これ、なんか変な誤解を生みたくないというか、どう書けばうまく伝わるかわからないのですが、別に私は闘病日記みたいなものを探して読みふけっているわけではなく、気になる考え方をする人だなぁ、という方の投稿を辿っていくとそういうことを話していた、みたいなことが最近ちょっと続いた、という感じです。それだけ心が疲れている、あるいは心身のバランスを崩している人が多い、というのは気が滅入ることかもしれないけれど、それだけ構えずに精神科、あるいは最近だとメンタルクリニックとかになるんでしょうか、そういうところに行けるようになったという意味では生きやすい時代になったといえるのかもしれない、みたいな風にも考えてしまうのは、つい最近江國香織の『きらきらひかる』を読んだせいもあるかも。あれは30年ぐらい前の小説ですが、精神科に通っているということが信じられない人間的欠陥であるかのような罵倒がなされるシーンなどがあり、そういう時代があったということがわかっていてもちょっとひるんでしまったので。おもしろかったけど、今の時代ではもうこういう関係がこんなふうに書かれることはないんだろうなぁとも強く思う小説だった。
話がまたずれているので戻します。心が元気な時には当たり前だと思って気にも止めなかったようなことでも、自分の元気がなくなってくると引っかかったり気になったり、なんだか過剰に傷ついて、結果さらに心身が弱っていく、みたいな悪循環が生まれてしまうことがある。そして、一度つまづいた違和感のことは、精神的に復調してある程度普段通りの生活を送れるようになっても簡単には忘れないでしょう。「普通」の人が普段なら見過ごすような、そういうささやかな段差に目を留めて、そこから生まれる感情を拾い上げていくような人の文章の着眼点に、私もまたちいさくつまづいて、考えるきっかけをもらっているのかな、という感じがする。もしも情緒に奥行きみたいなものが存在するとしたら、なんか、そういう部分のことだったりもするのかな、みたいなことをここ数日考えていました。
でもこれって、そういう違和感を拾い上げて言葉にしている人だけが気づいていることとは限らないんだよな。気づいて、声はあげなくとも頭のなかでずっと考え続けている人も、自分はそこにただ諾々と従わないようにすこしずつ行動を変えていく、みたいなかたちで対応していく人もいる。結局外からは見えないものが奥行きなのだから、外から見てるだけの他人が「あのひとは奥行きなさそう」みたいに決めつけて勝手に断じるのはダサいし失礼だしやめといたほうがいいことではあるよね、みたいな結論にはなってしまう。うーん、やっぱりどうあがいても悪口だったのかなぁ……でも面白いなって思っちゃったんだよな……。