造花より生花のほうが好きだし、桜が散る様は美しい。枯れかけた花びらの色、キャンドルの小さな炎。純喫茶でクリームソーダや固めのプリンを注文するし、小説は絶対に紙の書籍で読む。薄暗い夕暮れをフィルムカメラで撮る。どれも、なんとなく好きなだけだ。好きだと感じる対象に、意味づけをしようとか、理由をレトリカルに語ろうとか、そういうのは必要ないんじゃないかと思ってしまう。でも人に言ったら、ああ〜いわゆるエモいって感じ?と嘲笑されそうな、一種のステレオタイプと化した感性を私はもっているのかもしれない。最近はそう疑うようになって、エモいね(笑)と誰かに言われてしまいそうな嗜好はあまり大っぴらに明かさないことにしている。
iPhoneのカメラで十分すぎるほど高画質の写真が撮れるのに、私がたまに使い捨てフィルムカメラを買っていることについて、親には「今の若い子にとってはかえって新鮮なのね〜」と納得できるような、できないような感想を言われた。新鮮だとか懐かしい雰囲気が逆にいいだとか、確かに、私がフィルムカメラの曖昧な写りに惹かれる理由を言語化しようとしたら「エモい」という言葉に行き着くのかもしれない。この単語の響きも文字面も好きではないので、せめてノスタルジックと言わせてほしい。
まったく、厄介な言葉ができてしまったなと思う。いちいち形容詞で括らなくてもいいのに。#がつけられて、企業の広告に使われて、そうやって単なる流行として消費されていくエモの中に、ひとりひとりの人間の感性が埋もれていくのがなんだか寂しい。自分くらいは、自分の好きなものに理由づけなんてしないまま、好きだという事実をそっと抱きしめていられたらと思う。