12月5日

沢村
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公開:2025/12/5

 歯医者に行った。お前は歯医者に行き過ぎではないかというツッコミをもらいそうだが、左上の歯が染みて染みて仕方なかったのだ。予約の電話をかけた時は、「もうこれは確実に虫歯だ!」と思っていたのだが、急に痛みが軽くなって、「あれ?」となってはいたのだが、一応行った。すると歯は何ともなかったようで、どうやら食いしばりが激しかったため、一時的に痛みが生じていたらしい。「嫌なこととかありました?」と聞かれ、「ありましたねぇ」となった。

 私が歯医者に電話をかけたのは11月19日、丁度義母が急に家に来ると言い出した翌日のことだったのだ! 人間って、人体って、すごーい。

 144タイプ診断をした。私はENFJ(主人公)のエニアグラム8(統率者)、サブタイプが1(完璧主義者)ということらしかった。ENFJは何となく善人ぽいイメージだけど、なんで自分はこんなに悪役っぽいんだろうと日頃から悩んでいたのだが、腑に落ちる。要は感情的で独善的なモラハラ野郎なのだ。字づらにすると嫌すぎてうぇぇ、となる。自身の倫理が社会に適合していれば良いが、そうでなくなった瞬間に、自分は強烈なモンスターになるだろうなと自覚する。

 あまりに何だかな……な診断結果なので、今朝の夫との喧嘩を思い返し、私に利はあるだろうと思いつつも、謝罪をした。利があるからいいってもんじゃない。合理性が正しいわけじゃない。そもそもその合理性すら、私の主観だ。「自分は感情的で独善的なモラハラ野郎なのだ」と常に思いながら生きていけば、もう少し優しくなれるかもしれない。うげぇ、ストレスがかかりそうだよ……。

 あぁ、優しいと言われたい(これは一体何回目の呟きでしょうか)。

 さて、まとまりがなさすぎて恐れ入るが、角田光代先生の「よなかの散歩」(新潮文庫)を拝読した。料理をする/しないに関して多少感情が波立つことはあったが、総じて面白いエッセイだった。そもそもオレンジページに連載されていたものだそうで、そりゃあ多少「料理」に厳しい描写で当然ですね。自分にできないことを羨んで申し訳なかったですぅ、という気持ちになる。

 総じて、角田光代先生はかなり個性的で、そしてお料理がお好きなんだなぁ、食べることがお好きなんだなぁ、という印象を受けた。小川洋子先生のエッセイを読んだ時のような、内省5000! みたいな感じはなく、「普通に気が合ったり気が合わなかったりする人の話を聞いている」感じで読めるエッセイだった。テーマが違うとまた印象が違うのかもしれないけれど。

 ちょっとそれはキツくないですか? とか、あーわかりますね。とか、いやそれは私の場合はないですねー、という感じで、ちょっと色んな方向に感情を引っ張られる。先生の文学に触れた時の「激しい引っ張られ感」こそないけれど、これほどまでに日常の些細なことを取り上げていながら感情が揺さぶられるというのも不思議だ。これもまた文章の力だろう。

 というわけで実際共感できたりできなかったりすることが多かったのだけど、「愛とは悲観に属する何か」という表現が胸に響いた。猫ちゃんを心配する言葉なのだが、うんうん、そうですねぇと深く深く頷いた。違う事象から同じ感情にたどり着けると、人と人とが言葉で分かり合える気がして、嬉しくはなる。

 私は結構な心配性であり、保育園のプールの日はソワソワして昼休みに様子を見に行くし、保育園バスで遠足などがあった日には、昼休みにやはりバスの様子を見に行く。先生方が当然危険を見逃さない対応をしてくれているとわかってはいるけれど、想像に胸を掻きむしられ、何か、誰か、うちの子が取り残されていないかを、どうしても確認したくなってしまうのだ。端的に言って、重すぎる。しかし、やめられない。

 そして静まり返った園庭と、揺れないプールの水面、すっかり空っぽなバスを見て、どうしようもなく安堵する。あー、よかった。お昼買いに行こう! と、笑顔になれる。過干渉にならないように頑張りたいが、とても難しそうである。誰か止めてくれ!

 まぁ兎にも角にも、虫歯はなかったし、夫とも仲直りできた(と思う)し、本も読めて、滑り出しは微妙だったけど、いい金曜日だったんじゃないですか。とりあえずそういうことに、しておきましょう。