まるっと人を尊敬したり、好きになったりすることが、あまりない気がします。大体の人間は、どんなに偉くても、どんなに好きでも、ダメなところを持ち合わせているものですし。尊敬の意味には他社の人格や行為を高いものと認め、頭を下げるような、ついて行きたいような気持ちになること、というのがあるらしいのですが、私の中のヤンキーとバンカラがそれを許してくれません。(嘘、ヤンキーやバンカラは信じたものに弱い気もします)。よって、一人の「人間」についてではなく、「要素」への話になりますこと、ご容赦ください。
① 家計簿をつけられる人、食器にこだわれる人、整理整頓ができる人、いわゆる「丁寧な暮らし」が実現できる人
理由は、私がとてもとても苦手にしている領域だからです。いやまぁ、実際汚部屋に住んでいるわけではないのですが、どうしようもなく雑なのです。そして日常の一つ一つを大事にできる人は、他人にも丁寧で、人生をきちんと噛み砕いて自分のものにしている感じがしています。なんで服に皺がないんだろう。なんで足先が綺麗なんだろう。その一つ一つの「心地よさ」「見目の良さ」の向こうにある繊細な配慮に触れると、「アーン!!!!」になります。(自分が嫌になって)。とりあえず私は、こたつで仕事をするのをやめた方がいいかもしれない。ちゃんちゃんこを脱いだ方がいいかもしれない。
② 車の運転をしていて声を荒げない人、失礼な態度を取られても「災難だったね」と笑える人、怒りに絡め取られず、動じない、強い穏やかさを持っている人
あれは自他境界の問題なのでしょうか。いません? どこまでも優しくて、「おい、怒りのスイッチどっかに置いてきたんか?」みたいな穏やかな人。そういう人の放つ柔らかでしかし強い光に触れた時、日陰もののくせに苛立ちがちな私は手を合わせたくなります。本当は怒っているのかな? 怒っていても外に出ないだけなのだとしたらその抑制力に驚きます。いやまぁ、私がガバガバなだけかもしれないですが。
③ 「何で?」と聞かないで、そのまま飲み込める人、自分の怒りや悲しみを語りすぎない人、「沈黙は金」の体現者
私と対極にいる感じですよ。私はずっと何で何で何で何で何でと問いまくっているからです。「言うべきことを言う」必要があるシーンなんて本当はほとんどなくて、私が思っている「言うべきこと」は私が勝手にそう思っているだけで真実そうではないことも多々あるわけで。「言わない強さ」をおおらかに保っている人は、「お、大人すぎる」と感じます。でもこういう人も、もしかしたら発したい抱えている何かを心に滞留させているかもしれない。だとしたら私が代わりに毒にして排出してあげたいけれど。私に向けてのモヤモヤだったら、いい感じにミキサーにかけておく、ので。
世の中には恋人に「別れよう」と言われたらすぐに納得して、「わかった」と言える人もいるそうです。(お世話になっている美容師さん談)。え、すごくないですか? 絶対何でか知りたいし、認識に相違があったら反論したいですが……。
④ 優しい人
あえてシンプルに書きます。優しい人。尊敬しています。自然に他者奉仕ができて、見返りのない「他者を喜ばせたい」気持ちを保持していて、そのための苦労を厭わない人。一見の「優しい」とは違う、根本的な他者軸の考え方に触れるたび、ため息がでます。感嘆の意です。えてしてそういう人は、優しいと言われる自分に、「都合がいいだけなんだ」だとか「自分のためにやってる事なのに」なんて嫌悪感を抱いてしまって、それでも悩みながら、人に手を伸ばさずにいられない。我慢しないでと思うけれど、その優しさは本当に美しくて、私が永久に憧れていて、絶対に自分のものにできないものです。その危うさも弱さも、そうでありながら立っている強さも。
あ、自認「優しい」の傍若無人な姻族がいた気がします。貴女だけは違います。
さて並べてみて、随分抽象的だなぁと思いました。しかし何となく、外形的な強さではなく、心の奥の方の強さみたいなものに憧れているらしいことが分かってきました。抑制的な心の強さ、そういう成熟を尊敬しているのです。これは意外と幼児にも見られることがあって、涙が出るくらい感動します。な、なんて素晴らしいんだ。
そしておそらく、私は目に見えるステータスや能力で人を尊敬することは、一生ないでしょう。
そして思うのは、こんなに七面倒な私に好意的に関わってくれる全ての人が、優しくて立派で尊敬できるなぁと思います。なぜかというと、私は私の面倒くささを、そして思考の粗暴さを、見限ると思うので。ありがとうございます、ありがとうございます!! というわけで、以上。