フィクションと現実の区別まとめ

sayuk
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公開:2024/11/10

Twitterとかのツイートまとめ(順番も時系列も不同)

恋リアの話は他にもたくさんあるので別立てしたほうがよいかも

フィクションと現実の区別

フィクションと現実の区別をつける(つけることができる)という話をしばらく考えてたのだけど、いろいろ経緯は端折るけど途中で「じゃあラーメンと永遠の区別はつけられるの?」というフレーズが出てきたので今日のところは終わりです

「区別をつける」という時、ヒラメとカレイみたいな、だいぶ共通点はありつつ相違を指摘しうるポイントなりラインがある、という感覚になるけど、例えば真理と宇宙のように、全く違う分類だが同じと言われればそう思えてしまうものもあって、フィクションと現実は後者であることはないのかと考えていた

「フィクションと現実の区別をつけよう」というより、「いちど区別すれば永久に有効というわけではなく、新しいメディアの登場や議論により更新されうるものなので常に自問し続けたい」「現代美術や演劇はそういった論点を持つものが多く、またアイドルやリアリティショーも契機となりうる」あたりかな

自分は自身の欲望を完全に把握しコントロールしているので、感情や衝動で揺るぐことはないし誤配(不達・過達)も起こりえない、このことに疑いや再検討を不断に行う必要もない、みたいな信念の動かない人に「フィクションと現実の区別をつけられる」と言われても、という話になっていくのかもしれない

現場猫概念これだけ広まってるんだし、「作者の意図、ヨシ!」「読者の解釈、ヨシ!」「現実とフィクションの区別、ヨシ!」でも伝わりそうな気もするんですよね…。

「フィクションと現実の区別をつける」と「自分の趣味嗜好や思想はすべて自分だけの中から生まれ自分の意志で選択したもの」がたぶんかなり同源なのだろうなと思った

テーマパークとかビッグデータとか

テーマパークの疑似的な都市や街路みたいに、現実と区別されたフィクションというモールでも、表現の自由/規制という私有地で、差別・人権・格差といった本来国家や社会に属する問題が民事上の争点かのようにさせられてしまうのでは、と昨日も思ってたけどさすがに穴あきだらけの議論なので考えたいな

「フィクションと現実は区別しないと」とばかり題目のように言い続けると、政治家が明白に人権を侵害する発言をした上に「SFだから」と拙い誤魔化しをするということが起こる

監視社会論みたいなのを読んでたけど、こっちがいくら「フィクションと現実の区別を付ける」と宣言しても、ビッグデータで「このアニメが好きな人はこういう職種・ライフスタイル・食の好み」と解析され、自動的に「現実」がレコメンドされて広告効果を上げてしまうのは防げない、って話はなるほど感が

推しメンや好きなアニメキャラで生命保険の掛金が変わる時代いずれ来るし、ライトノベルの帯には「この娘に萌えれば老後も安心!」などの文言が並び、快活そうなキャラクターばかりがフィクションやアイドルに溢れる

ピクシブが写真や写実を禁止するのはそれが現実というレディメイドだと思っているからで(フィクションと現実は区別しないと!)、便器ひっくり返して泉と書いた画像をアップするのが抗議として正当なのかも

『リアリティ番組の社会学』

『リアリティ番組の社会学』、「“現実”という社会的に構築されたフィクション」みたいな感じのフレーズが念押しのように何度も出てくるのが、「フィクションと現実の区別を付ける」という言葉に対峙しているように見えて良かったですね

「リアリティ番組のスターたちに向けられるよくある批判は、スターの座を正当化するものが何もないということだ。」「ただ、そういう意味では、リアリティ番組のスターたちは何も目新しい存在ではない。昔ながらのことだ。一八六七年、マルクスは“使用価値”と“交換価値”の違いを指摘した。」ここ良い

ほか読書感想

歴史学における史実とフィクションみたいな議論を直前に読んでたので、黒歴史がなぜ歴史という語を含むか、アイドルや推し文化、二次創作や夢・なりきり、SNSでの自己表出、あたりにおける「現実とフィクションの区別」の多層性…みたいな感想になった

現実とフィクション…みたいな話の流れで読んでいたけど、さすがに噛み砕くの大変なのでもうちょっと議論の周辺を学んでおかないとと思った(中動態とか言語行為理論の話とかも出てきた)

恋リアとか

恋リア研究、「リアリティとは何をそう呼ぶのか」から「なぜフィクションと現実は区別させられるのか」のほうにだんだん関心が移りつつある

今期オオカミシリーズ、表明と伝達だけのはずのコミュニケーションになぜか貼り付いてしまう「関係」の分離、みたいな話だった。あと風船がそもそも呪い=オオカミだったんじゃんとか、現実から区別されてしまったフィクションには誰が手を差し伸べるのかとか…。

運命性や説明不可能性、つまりは「何を頑張ればいいか分からなくなる」がリアリティ番組に親和性の高い恋愛と芸能の共通点で、しかしそれを物語化するため「一途な想いが叶う」「努力は報われる」といった規範が乗る。恋愛禁止が本当に禁止しているのは、物語化プロセスの欺瞞に気付いてしまうことかも

一途/努力は「何を頑張れば」の混乱を馴染み深い成長物語にして整理するという利点の一方、正しい/幸せな恋愛の至上化、恋愛・性愛・結婚の緊密化という問題があって、恋愛禁止/解禁規範もそれと表裏なのだけど、石田拓実的な「まちがいを愚直に間違い続ける」がそのカウンターとなる、という例の話

「恋愛解禁」でよくいう「長年頑張ったから」「ファンとの信頼を築き上げたから」も物語化のための規範の一つで、逃れられてない。禁止も解禁/OKもコントロールであることには変わりない(生得的な自由は禁止以上に許可されてはならない)

「運命性/説明不可能性にどう備えようと衝突してしまう」と「まちがいを愚直に間違い続ける」が「現実とフィクションの区別をつけられる?」の話に(ここさいきん自分の中で)つながっているので…。

旧ジャニ会見

「小さな子どもたち」が目にする光景においては予め隠されている、報道や商取引に恫喝的な圧力を加えながら追及の場となると姿を見せない最も「大人」げない存在、をこそ告発する、みたいな話や論点は、どんな事務所のタレントが関わるフィクションやパフォーマンスでもいちばん好まれてきたように思う

「フィクションと現実は違う(区別する)」という言葉が、その擁護/免罪なり受忍なりとして働くとき、社会や企業という現実>フィクション>そのフィクションを精魂込めて演じる現実のタレント、のように「現実」すら二つに引き裂いてしまう、という話をずっとしているのかも