神の子イエス・キリストの福音の初め。──マルコによる福音書1章1節
+++
イエス・キリストの生涯を記した福音書には、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つが収められている。この4つの福音書の中で最も古いのは、マルコによる福音書だと言われている。
そのマルコ*が、イエスの生涯について世界で初めて書き始めようとした時、どんな言葉でも良かったはずだ。「むかしむかし、あるところにマリアというおとめがおった……」とかでも良かったし、イエス登場時の初台詞でありながら決め台詞でもあっただろう「悔い改めよ、神の国は近づいた!」とかでも良かったはずだ。
もっと言えば、聖書研究によると冒頭の「神の子」という言葉も、後代の人々が写本にするときに勝手に付け加えたもので、オリジナルにはなかった言葉なのだ。
「イエス・キリストの福音の初め」。マルコによる福音書を書いた弟子マルコ*は、イエス・キリストの生涯を知りたいという読者に対して、なぜこの言葉を選んだろうか。
「最初の一文を書いた時、その作品のラストが決まる」と、ある作家が語っていたことを思い出す。実はマルコによる福音書もそうなのだ。
この福音書は、イエス・キリストとは何者なのかについて読者に教えるために書かれた書物だった。しかしこのマルコによる福音書、ほとんど全編にわたって、「イエスとは何者なのか」という問いを人々は持ち続け、イエス自身はその答えを隠し続けるのである。
イエスは神の力を使って奇跡を起こす反面、イエスは人々にそのことを黙っているようにと厳しく禁じていく。人の口に戸は立てられないのでどんどん噂は広まっていくのだが、「じゃあ本当のところ何者なんだ」という答えについては明かされない。終盤になって弟子の一人であるペトロが「人々はあなたのことを預言者だ、エリヤだと言っています」「でも私はあなたをメシア(神様から遣わされた救い主)だと思っています」と言ったときにさえ肯定も否定もせず、「誰にも話さないように」と言うのである。十字架にかかって死んだイエスを見上げていたローマの百人隊長もこのように言う。
「本当に、この人は神の子だった」。
しかしこの言葉さえも、十字架のイエスは最後まで肯定も否定もしないままに(死んでいるのだから返答出来るはずもないのだが)、イエスの生涯は閉じられる。そしてその後に綴られる、イエスの復活の出来事も奇妙な展開になっている。
墓に葬ったはずのイエスがいなくなっており、そばに立っていた若者が「彼は復活した。生前言っていた通り、先にガリラヤへと向かわれた」と告げる。あれだけイエスとの別れを惜しみ、絶望の中にあった婦人たちはイエスの復活を喜ぶどころか、「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」と締めくくられるのだ。
マルコによる福音書はその後、復活のキリストがマグダラのマリアに現れるという話を続けているが、これも後代の写本で付け加えられたものだ。オリジナルでは上述の正気を失った婦人たちの姿で福音書が閉じられていたという。そうするとますます、マルコによる福音書という物語が謎に包まれていることがわかるだろう。徹頭徹尾、「イエスとは何者なのか」という問いに、ちゃんと答え合わせがなされないまま、物語が終わってしまうのである。
しかしだからこそ、ここにマルコが伝えたかった本当のメッセージが隠されているのだ。
前置きが長くなったが、もう一度マルコがこの福音書の最初に記した言葉を、「最初の一文を書いた時、その作品のラストが決まる」という言葉と共に思い出したい。
マルコは福音書を読み終えた読者にもう一度この言葉を読んでほしくて、こう書いたのだ──これが「イエス・キリストの福音の初め。」なのだ、と。
マルコは徹底的に、イエスとは何者なのかについて客観的に描き出している。それは、信仰というものが、神と自分との間にある究極的に個人的な関係性であるからだ。マルコは徹底的にイエスの正体をイエス本人に答え合わせをさせないまま、物語を語り終える。復活という神の子でなければありえない奇跡を、婦人たちの恐怖という一般的な反応で締めくくる。それは、イエスとは何者かという問いに対する答えが、一人一人にとって自由であるというメッセージなのだ。
だから、イエスの生涯全て、その言葉のすべてを総覧した、誰でもないあなたにとって、イエスとは何者であったのか?という問いをもって、改めてこの福音書を読み進めることができるように──何度でも読み返すことを前提として──この最初の一言をマルコは記したのだ。
福音書の中で、イエスという人はいろんな人々と関わり合っている。社会から、人々から一方的に蔑まれていた人。治らない病を抱えて人々から遠ざけられていた人。生きるために仕方なく、公言できないような仕事をしなければならなかった人。自分の正しさに溺れ、自分に従わない者を殺してしまおうと考えた人。自分の保身と相手への勝手な期待が裏切られたからと、お金で人を売ってしまった人、自分の弱さを突きつけられ、そこに向き合うことが出来ずに逃げ出してしまった人……。
三者三様、千差万別の反応が記されている。そして福音書を二度、三度と読み返していく中で、そのような彼らの姿に、「これはわたしだ」と重なっていく人が、必ず見つかるのだ。
だからこそ、そのようなあなたにイエスは関わろうとしてくださっていることを、マルコは福音書に記そうとしたのだ。
あなたが信じていようと、そうでなくてもいい。自分にとってイエスとはこのような方だと、自由に捉えてもらってかまわない。神の子はそれでも、そんなあなたを救おうとその手を伸ばしている。その事実を、鮮やかに描き出すために、マルコはこのようにイエスを記したのだ。
──「イエス・キリストの福音の初め。」
この福音書の一文を読み始めるとき、あなたとイエスとの物語は始まるのだ。
+++
*マルコによる福音書、といわれているが、オリジナルにはタイトルは含まれていない。もっと言えば、この福音書を直弟子のマルコ本人が書いたという確証もなく、マルコの名を借りて誰かが書いたという説が有力である。