形に残るもの

先日、大坊さんのところへ伺い、お互いの珈琲をテイスティングをしながら色々お話させていただいた。

テイスティングに使ったカップのうちのひとつは、大坊さんのご友人の作家さんが手描きで絵付けされたものだ、ということ。

大坊さんは「その方にね、あなたは作品が形になって残るからいいね、羨ましい、と私は言うんですよ」と仰った。

大変驚いた。自分も常々同じことを考えていたが、大坊さんのような人でもそう思うのだなと。

よく、人は二度死ぬと言われる。肉体が滅びたときと、誰の記憶からも忘れ去られたときに。たとえば自分に子どもがいれば、幾人でも友人がいれば、その人たちが生きている間は誰かが覚えてくれているだろう。

でもその人たちも皆いつか居なくなる。当たり前のことだが、そうやって自分のことを知っている人間が誰もいなくなったときに、自分が存在したこと自体無かったことになるんじゃないかと恐怖にも似た気持ちになる。

自分にはっきり物心がついたときに、祖父母のうち存命だったのは母方の祖母ひとりだけだった。その祖母が亡くなったとき、人の声はいつまで覚えていられるのだろうと考えた。当時の自分は小学生ながら忘れたくなかったのだと思う。

しばらくはまだ思い出せる、まだ思い出せると確認していたが、いつのまにか頭の中の祖母の声は聞こえなくなっていた。

現代では声や音は残せるだろう。それでも再生デバイス次第でもあり、数百年・千年先は分からないけれど。

味や香りは残らない。生きている人に属する感覚だから。

自分はそうやって忘れ去られていくことが明白なものをつくっている、ということをいつも考えている。