主役と脇役

珈琲という飲み物は時と場合によって主役なのか脇役なのかが変わる、と思っている。

「珈琲屋」を標榜する店に来る人は珈琲を目掛けてやってくるし、少なくともその場では珈琲が主役だ。スポットライトが当たっていると言ってもいい。自分が珈琲を淹れたカップを差し出すとき、行ってこいよと舞台袖から主演俳優を送り出す気持ちになる。

珈琲だけをやっている自分みたいな人間からすると、珈琲を飲みにきてもらえるのは素直に嬉しい。美味しいと思ってくれるかもしれないし、その人の好みには合わないかもしれない。でもそれはどっちだって構わないと思っている。珈琲にフォーカスしてくれていることには変わりない。

「カフェ」や「喫茶店」ではどうだろうか(珈琲専門ではなくそれ以外のメニューが豊富な店の意)。ありがたいことにそういうお店で使ってもらえる機会も少しずつ増えた。そこに来る人の目当てはフードメニューだったりケーキなどのお菓子だ。その場合珈琲はとりあえずオーダーするもので、主役ではないだろう。別に飲み物は珈琲ではなくたっていいのだから。何かと一緒に提供された珈琲は脇役であると思う。

ただ、たとえば映画の脇役が悪目立ちしていないことも良いことだと思うが、ノーマークだった脇役の演技に心奪われて主役より輝いて見えることもある。

自分の珈琲が食べ物の隣に良い意味で目立たず溶け込んでいるのも嬉しいが、誰かが何の気無しに頼んだ珈琲を飲んで美味しいと言ってもらえたときにこそ真に嬉しい。

マルシェイベントでカレー屋の隣に珈琲屋のブースがあったから。ケーキにはいつも珈琲だから。暑い日の散歩途中にたまたま見つけたからとりあえずアイス珈琲頂戴。

偶然自分の珈琲と出会った人がその人の想像以上に何かを感じてくれた瞬間を目にしたとき、見つけてくれたのだと頬を緩める。