「沈黙を許してくれ」——曖昧なクィア性と確固たる存在についてのノート

眞鍋せいら
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(はじめに:この文章は、以前「果ての向こう側通信」より発行されたZINE『forget me not』(2022)に寄稿されたものです。今回、主催者承諾を得て、筆者本人により公開いたします。また、公開にあたり一部表現を修正いたしました。)

おそらく、とわたしは考える。このZINEの趣旨文を読み返して、これから自分が書く文章がどのようなものになるのか思いをめぐらせる。おそらく、歯切れの良い文章にはならないだろう。たとえ書けたとしても、一進一退したり、何を言いたかったのか忘れてしまったり、ぼそぼそと誰かに小声で打ち明けるような文章になるだろう。

「日々クィアとして暮らしているにもかかわらずその存在が、クィア性が不可視化されてしまうことへの抵抗として出します」。主催からもらった趣旨文にはそうあった。なるほど、わたしも何か書けたらいい、確かにそう思って、書きますと返事をしたのだった。数ヶ月前のことだ。でもいま、わたしはよろよろと、メモもなしにキーボードを叩いている。書けるだろうか。

例えば。なにか証明できるものがあったらいいのかもしれない。これを読んでいるあなたにわたしのクィアな経験を説明できたらいいのかもしれない。あるいはわたしの性自認やセクシュアリティは〇〇です、とあなたにはっきり言えたら。そうしたらあなたはわたしのことを信じてくれるだろう(あなたはきっと親切だから)。だが、わたしにはそれができない。少なくとも、はっきりとした物言いでは。

わたしは周囲から、シスジェンダーのヘテロセクシュアルとして見做されつつ毎日を生きている。自分でもそうだと思うときもある。わたしのクィア性は、いつもぼんやりとしていて、それが形を結ぶときもあれば、結ばないときもある。わたしはごく容易にマジョリティに溶け込んで生活することができるし、自分でもそれを不思議だと思わない場合も多い。

それに、正直なところ、わたしには自分のクィア性をあなたに説明するつもりもないのだ。だって十中八九知らない相手のあなたに、それを語ったところでなんになるというのだろう。いや、もちろん意味はある。クィアな人間たちが声をあげることの意味の大きさは、少しはわかっているつもりだ。でも、まったく無名の、きっとあなたには関係のない人間のわたしがそうしたところでと思ってしまう。だから言ってしまえば、わたしはクィアとして、語るほどのことを持たず、語る意思もないのだ。

でも、とわたしは自分に問いかける。そもそもわたしのきわめて個人的な経験を、「語るほどのことがない」とするのは誰が、どのようにして決めていることなのか?単純な例をとっても、マイノリティの語りは第一に、マジョリティによって「取るに足りないもの」として周縁化されてきた。そしてマイノリティの内部でさえも、その中心−周縁という権力は働いてきたと言えるだろう。「典型的なマイノリティ」の物語は、その理解しやすさのゆえにマジョリティ、マイノリティの両者に消費されてしまい、「典型的でないマイノリティ」の語りはうやむやにされてしまう(バイセクシュアルやノンバイナリー、ジェンダーフルイド、クエスチョニングなどの物語がしばしばそうであるように)。

そして次に、なぜそれを語らなければならないのか、という問題が浮上する。なぜ語ることで誰かに——あたかも自らのマイノリティ性の証明を求めるように——説明しなくてはならない?シスジェンダーでヘテロセクシュアル、かつアロロマンティックの人間は、自らのジェンダーやセクシュアリティについて説明する必要などない。なぜクィア(または、クィアかもしれない)という人たちだけが、いつもぎこちなく、あるいは誇らしげに、自らの存在を主張しなくていけないのか。

それはこの、あまりにアロシスヘテロ規範の強い世界のせいだとわかっている。このような世界では、声をあげないと本当にいないことにされてしまう。そしてクィアたちのパーソナルな物語こそ、拾い上げられ、読まれるべきだ。

でも、わたしは、大きな声ではっきりと「わたしはクィアだ」ということにためらいを感じてしまう。それほど自らもシスヘテロとして日常で扱われているし、だからクィアとして語るほどの物語などないと思ってしまうし、何よりもそのような、クィア=マイノリティが語ることを外側から強制するような(しなければ存在を証明されないような)ふるまいに加担したくないと思っている。

現象学者の村上靖彦は、『交わらないリズム 出会いとすれ違いの現象学』(青土社、2021年)の中でこう述べる。

 

「何もしなくてよい」場所としての居場所は、「話をしなくてもよい」場所でもある。この沈黙は秘密を守るために黙秘するということではなく、安心して静寂を保つこととしての沈黙である。これはリズムのゆるみの別名でもある。自らを表現する言葉は、このような沈黙を母体として生まれる。なので「語らなくてもよい」という居場所のあり方は、言葉が生まれるための条件ですらある。沈黙することができるがゆえに、語り出すこともできるのだ。

 

果たして今の世界に、クィアが「話をしなくてもよい」場所があるだろうか。安心しきって弛んだ沈黙と、それゆえの語りがあるだろうか。そのような場合の語りとは、きっとはっきりとした大声であることもないだろう。なぜなら、聞いてもらうために理路整然としている必要も、大声を張り上げる必要もないから。おそらくそれは、沈黙のあと自発的に起こるおしゃべりで、ぼそぼそした要領を得ないものに近いのだろう。

「わたしの沈黙を許してくれ」と、わたしはあなたに語りかける。「その時が来たら、語れるかもしれないし、語れないかもしれない」。

同時に、わたしがあなたに言えるのは、あなたも無理に語らなくてもいい、ということだけだ。語りたいと思うなら、聞こうと努力しよう。だが、たとえ言葉にならなくても、自認がわからなくても、「実はクィアじゃないんじゃないか」と思っても、それで実際そうだとしても、黙っていても、大丈夫なはずなのだ。

なぜなら、たとえ一貫して沈黙を守っていたとしても、あなたやわたしがいなかったことにはならないから。クィア性が曖昧なものだとしても、存在は確固としてある、とわたしは信じている(ああそうだ、とここまで書いていて思う。これらすべて、わたしが誰かに言ってほしかった言葉なのだ)。

「ここにいる」と大きくでも小さくでもいいから主張する、そのようなクィアたちには心から、最大限の賞賛を送りたい。わたしがこうしているのもかれらのおかげだ。そのような存在がいるからこそ、わたしは自分がクィアだと確信していたときも、つらくはあったが心強かった。わたしもそのようにできたらと思うが、今のわたしには、自分の物語を語るつもりがない。

だから、せめて「黙っていても大丈夫だよ」と、これを読んでいる誰かにそっと視線を送りたい。「典型的なマイノリティ」でなくてもいい、それを誰かに証明しなくてもいい、あなたは、わたしはすでにここにいるのだから、と。

@seira
詩のような、日記のような