※この文章は、映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』(古賀豪監督 2023年、東映)を、近代日本社会批判、とりわけ天皇制批判として読もうとしたものです。あくまで一視聴者による批評の試みであり、監督や公式の見解と一致しているわけではありません。また、本作のネタバレを多分に含みます。何より、できるだけ原作に即して論じようとするものではありますが、2024年1月現在本作のDVDなどは発売されていないため、細かなセリフや話の筋に関しては記憶違いがあると思われます。その点をご考慮の上お読みください。
反戦映画として、また戦後資本主義批判として
『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』(以下、ゲ謎)は、公開当初から、わたしのSNSのタイムラインを騒がせていた。とりわけ左派や左翼、リベラルを自認する人々から、「これは反戦映画であり、戦後日本の資本主義批判である」との評判だった。そんな中、一見政治には関心のなさそうな知人からも「面白いから見に行ったほうがいい、今度特典第二弾が配布されるから」との熱い推薦を受け、わたし自身も鑑賞するに至った。
結論として、ゲ謎がエンタメとして高い完成度であるのはもちろん、左派からの好評はもっともであると感じた。主人公の水木(言うまでもなく本作の原作者、水木しげると同じ名を持つ)は、原作者と同じく、従軍し南方で「玉砕」を命じられた経験があり、本作の舞台となった昭和31年(1956年)においても、PSTDに苦しめられている。死んだ水木の戦友たちは、冒頭で鬼太郎の父(通称・ゲゲ郎)が指摘する通り、水木に取り憑いている。作中では所々に、水木の戦場での記憶がフィルムのように挟み込まれる。
そして、ゲ謎は戦後日本の資本主義/企業社会批判でもある。水木は、軍隊でのトラウマ体験や上官からの理不尽な暴力、そして戦争を指揮した指導部が戦後も権力の座についていることなどの経験から、「戦場も故郷も関係ない。弱い者はいつも食い物にされて馬鹿を見る」と信じ、マッチョな昭和の「モーレツ社員」になる。かれは「帝国血液銀行」で頭角を表し、重役の座を狙う。本作では一瞬ではあるが、おそらく水木の職場の血液銀行であろうビル内で売血のために列をなす、きらびやかとは程遠い人々の列が描かれる。
水木は社長の密命を受け、与えられれば無類の効果を発揮するという特殊な精血剤「M」の手がかりを求め、龍賀一族の里・哭倉村へと向かう。「M」こそ、日清、日露、そして太平洋戦争で日本軍が躍進した秘訣であり、それは戦後復興を目指す今こそ必要とされているのだった。「M」の使用目的について「やはり軍隊向けですか」と問う水木に、社長は答える。「企業の戦士たちだよ、水木くん。戦争は今も続いているのだ」。
このことは、劇場版パンフレットによれば、古賀監督も意図的に描いている。監督は、舞台になった昭和30年代について、自分から提案したと答えた上で、この時代を「戦後体制から高度経済成長期に移り変わる時代です。日本は戦後の焼け野原から40年でバブルを迎え、世界一豊かな国になりましたが、それからさらに40年で子どもや女性の貧困率、自殺率は世界でもワーストレベルの国になってしまいました。なぜそうなってしまったのか。その問いかけは、水木先生が鬼太郎を生み出したことのテーマ性と通ずるものがあるのではと思ったんです」と語っている。実際、作中では龍賀家の跡取りである幼い男の子・時弥と、水木とゲゲ郎の二人の大人が語り合う場面がある。「そのうち東京に世界一高い電波塔ができる。いつか日本は世界一豊かになって、病気も貧困もなくなる」と時弥に語る水木に、ゲゲ郎は「それはおためごかし」「進歩を望まない人々もいる」と指摘しながらも、「時ちゃんたち子どもが真剣に願えば、そのような未来も来るかもしれんの」と希望を語る。
しかし、「なぜ高度経済成長期から40年経った今、日本は貧しくなってしまったのか」という監督の問題意識を映すように、哭倉村で水木が知った「M」、そしてそれを生産する龍賀一族の秘密は、おぞましいものだった。水木はそれを知り、嘔吐しながら言う。「俺はこんな一族に憧れていたのか」「自分が恥ずかしい」。そう、今まで見てきたように、ゲ謎が傑出しているのは、単なる反戦映画だからではない。それが現代まで続く、戦後日本のありよう——戦前・戦中の精神を受け継いだ水木のようなマッチョな企業戦士たちに支えられ、一方で「働けない」弱者を虐げ、搾取してきた社会——を批判しているからである。
天皇制批判としての「ゲ謎」
さて、これらの強いメッセージ性に加え、ゲ謎の魅力のひとつとしてわたしが指摘したいのは、「この作品は天皇制を批判しているのではないか」という点である。もちろん、ゲ謎が戦争と戦後日本を批判しているのであれば、戦後も連綿と続く天皇制の批判をすることも、安易であり自然に思えるかもしれない。しかし実際はそうではない。左派的な思想やリベラルな意見を持つ人々が、天皇制批判には踏み込めない・あえて踏み込まないといった例は多分にある(中には、安倍晋三に代表される自民党政権と対比して、平成天皇こそリベラルであったとする向きすらある)。もちろん、古賀監督はじめスタッフの側に、このセンシティブな問題についてどのような意見があるのか、我々には知るべくもない。できるのは作品を元とした批評のみである。
ゲ謎が天皇制批判でありうるというのは、どのようなことか。取り上げるべきは、物語の最後である、「穴倉」の底のシーンである。そこで水木とゲゲ郎は、時弥の体を秘術で乗っ取った、死んだはずの龍賀一族の当主・時貞と対面する。時貞こそ、「M」を通じて日清、日露戦争の日本の勝利を導いた立役者であり、絶大な権力を有していた人物だ。時貞は、自分は日本の将来のため、「不甲斐ない若者たち」に代わってまだまだ日本を率いていくという使命を持っており、そのために時弥や他の一族を利用したのだと自慢げに語る。時貞の野望は、時貞の長女・乙米の言葉からもわかる。「この日本をあの屈辱的な敗戦から立ち直らせ、再び世界一の強国にするのがお父様の夢」「そのために死ねることを名誉に思いなさい」と乙米は言い放つ。そしてその乙米の姿は、水木によって、「玉砕」を命じながら自分だけ生き残ろうとした上官の姿と重ね合わされる。有り体に言ってしまえば、時貞は、戦後も天皇の座に留まった昭和天皇とオーバーラップするのである。
しかし、時貞が昭和天皇を思わせるのは、以上のことからだけではない。「穴蔵」のシーンで印象的なのは、時貞が愛でる「妖樹血桜」だ。桜は言うまでもなく日本の国花であり、未だに愛されると同時に、軍国主義の象徴でもあった。話が逸れるようだが、闇の中に赤く浮かび上がる血桜は、水木しげると同時代を生きた画家・富山妙子の作品を思わせる。当時の満州に生まれた富山は、戦後も一貫して日本の帝国主義を糾弾し続けた。例えば『きつね物語・桜と菊の幻影に』(1998年シリーズワーク)などは、そのおどろおどろしくも幻想的な雰囲気と相まって、ゲ謎の最終シーンを思い起こさせはしないか。(富山妙子については、公式H Pなどを参照。https://tomiyamataeko.org)
血桜の最終シーンに戻ろう。その名の通り、血桜は他者の血を養分として、その色を赤く染める。そして今作、その養分とされているのは、ゲゲ郎と同じく幽霊族の生き残りである、ゲゲ郎の妻(鬼太郎の母)なのである。血桜は幽霊族の血を吸うことで美しく咲き、時貞の目を楽しませる。ここでわたしたちは、時貞が昭和天皇の隠喩であると同じく、ゲゲ郎とその妻たち幽霊族がなんのメタファーであるかについても、考察しなければならないだろう。
「幽霊族」と「人間」——近代的レイシズム(人種差別)の構図
幽霊族は、もともと人間より古くから存在していた民族であり、人間によって狩られたことでその数を減らしていったとされる。そして、物語を追うごとに、龍賀一族の権力の源である血液製剤「M」は、幽霊族の血が原料であることが明かされる。龍賀一族は幽霊族を捕らえ、その血をまた捕らえた人間に輸血することで彼らを「生ける屍」にし、「M」を作り出す。まさに幽霊族や、一部の人間の「生き血を啜る」ことで富を得ていたのである。その幽霊族の最後の生き残りが、ゲゲ郎とその妻なのだ。
この時、ゲゲ郎たち幽霊族は、日本帝国主義の犠牲となった旧植民地の人々、また侵略された人々の姿と重なる。作中での「人間」が表すマジョリティの大和民族に差別されてきたマイノリティである。彼らはレイシズムの犠牲者なのだ。
ここで重要なのは、近代のレイシズムにおいて、マジョリティの目的はマイノリティを根絶やしにすることにはない、という点である。もちろん差別は殺戮に帰結する。歴史的な事例を引くなら、関東大震災時の朝鮮人を標的にした虐殺や、ナチスのホロコーストがそうであるように、マイノリティはことあるごとに、人種差別暴力の犠牲になってきた。しかし、近代の帝国主義/植民地主義において、より重要なのは、マイノリティを支配下におきながら、富の源泉として搾取しつづける、ということなのである。マイノリティを完全に殺してしまっては意味がないのだ。かれらを生かさず殺さず、搾り取れるだけ搾り取らねばならない——ちょうど龍賀が「M」を精製し、また血桜の養分とし続けるように。
ゲゲ郎、そしてその妻の間に幽霊族の子供(鬼太郎)が生まれることを知った時貞は、「おぞましい化け物め」と言いながら、歓喜する。二人に「子どもを作りなさい」と命じた乙米と同じく、幽霊族の血が絶えずにいることは、龍賀にとって喜ばしいことだからである。時貞は「やや子は我がものぞ」と欣喜雀躍するが、これは全ての臣民——そこには大日本帝国の植民地の人間も含まれている——が、天皇の「赤子」とされたことと重なるのだ。
ゲゲ郎は血桜の枝に手足を取られ、そこに攻撃を受けて血が滲む。画面中心に捕らえられたゲゲ郎の血が、白い桜を背景にして同心円上に広がっていく。そこに日の丸のイメージを見たわたしは、さすがに穿ちすぎだろうか。
「マジョリティ日本人」としての水木
先日、ゲ謎の感想をSNSで見ていたわたしは、こんなコメントに出会った。「水木は格好良く描かれているけれども、戦後社会に順応できていたように、やはりマジョリティの日本人男性なんだな」というようなコメントである。その点、わたしも深く同意する。前述のとおり、水木は従軍経験があり戦後企業戦士となった、ある種ステレオタイプの日本人男性だ。作品では描かれないが、水木の従軍体験が指しているのは、一兵卒とはいえかれもまた戦争の加害者でありえたし、おそらくそうであった(人を殺した経験がある)ということだ(一方、茶番とはいえ沙代を殺すふりができない弱さも彼は持っている)。そして戦後、「帝国血液銀行」で順調に出世していたことからも、水木は必ずしもマイノリティ側ではなかったと言えるだろう。
しかしだからこそ、時貞との対決シーンでの水木の役割は大きい。ゲゲ郎というマイノリティ表象に全てを負わせることなく、龍賀と、それが表す日本社会での「勝利」に憧れていた自らとの訣別として、水木は血塗れで時貞に斧を振るう。
ところで、「わしに与するなら会社を持たせてやろう」「御殿に住め」などと甘言で誘う時貞に対して、水木の「あんたつまんねえな」という返答は、やはり象徴的なものとしてSNSですでに話題になっていた。しかし個人的には、壊したら「国が滅ぶ」とされた時貞の髑髏を斧で壊した水木の、「ツケは払わねえとなあ」の言葉がより印象的だと思う。戦後も続く日本の植民地主義を、マジョリティ日本人である水木が叩き壊し、「ツケは払わねえとなあ」と笑いとばす。水木にやや肩入れして言えば、日本社会の恩恵をもっとも受けてきたマジョリティの一員として、その責任を引き受けたのだ。痛快なシーンであったように思う。
それでも次世代に希望を託す——左派的なニヒリズムの向こうにあるもの
時貞を倒した後、ゲゲ郎は、やはり「国が滅ぶ」ことを危惧して、殺されたものたちの恨みを一身に引き受けようとする。そしてそのようなゲゲ郎を、当然水木は引き止める。「やらせとけ!お前が犠牲になることはねえんだ!」というセリフは、非常に水木らしいものだ。ところが、ゲゲ郎は、生まれてくる息子のため、次世代のためにと、恨みの依代となることを選ぶ。
ゲ謎がわたしにとってもっとも魅力的なのは、この点である。個人的な印象の話になるが、とにもかくにも左派的な心情をもち、日本の将来を憂いていると、「こんな国はもう滅びるしかないんじゃないか」「その方がいっそいいのではないか」というような、ニヒリズムに陥ることがまま、ある。しかし、それは何も知らずに生まれてくる次世代に対して、あまりに無責任というものだ。「次世代のため」「子孫のため」というと、とかく右派的な運動や思想に巻き込まれてしまうケースも多いと感じているが、ゲ謎は、非常に誠実に、次の世代のために自らの世代の責任を果たせと語りかけてくる。血縁だけでいえば加害者の側であるはずの沙代や時弥といった子供たちも含めて、そして何より鬼太郎が象徴するように、本作の次世代へのまなざしは強く、あたたかい。
ゲ謎は、マジョリティの象徴であった水木が迷いながらも、墓場から生まれた鬼太郎を強く抱きしめるシーンで終わる。鬼太郎が社会にとって「災い」となるかもしれない、という、いわば社会的な大義よりも、水木は目の前の命を守ることを決断するのだ。ここにわたしは、現代日本社会への非常に先鋭的な批判と同居する、希望を見るのである。