水族館に人魚が入ったと聞いたのは、夏休みも終わりの八月末のことだった。水族館、といっても、目玉になるような大きなサメの展示やイルカショーがあるでもない、町の外れの古びた公共施設だ。そもそも魚なんてわざわざ展示しなくても海に行けばいくらでもいるという海沿いの町なので、水族館は何かあると税金の無駄遣いだなどと大人たちから言われていたから、人魚のうわさも子供たちを中心に、ひっそりと広まった。
「誰が見つけたの」
「知らない」
「知らないってことないらあ」
「だって知らねえもん。こないだ、一日中家にいてもよくないから外出てきなって母さんに言われて、行くとこないから水族館でもって行ったら、もう、いた」
そう、シシドは水族館への道すがら、自分に説明した。自分たちは炎天下、早足で行こうにも暑すぎて速度を出すこともできず、申し訳程度にアスファルトで舗装された道を歩いていた。
入り口で古びた自動券売機に200円を払って、外よりはましという程度の温度の中、薄暗い展示スペースをいくつか横切る。大型水槽がいくつか並べられた最後の展示スペースの一角に、人魚はいた。
「ほんとだ」
思わず小さく声が出た。人魚はぷくぷくと泡立つ水槽の底で、尾と髪をゆらゆら揺らしながら、丸くなって眠っているように見える。想像していたより大きくない。むしろ小さいと言ってもいいかもしれない。子供だろうか。人魚にも子供とかあるんだろうか。何か手がかりが得られるかもと思ったが、水槽の前にもつけられているどの説明板にも、人魚とは書かれていない。水槽に一緒に入れられている、他の小さな魚たちの名前だけが載っている。
「飼育員さん、何も知らないのかな」
「そんなことある」
「あるかもよ」
シシドと自分はしばらく眺めていたが、人魚はいっこうに起きる気配がない。唇は薄く開かれているようだが、泡は出ていないから、えら呼吸なんだろうか。物語の人魚姫は大変美人だというイメージだったが、目の前の人魚の顔は、美しいとも醜いともつかない。言ってしまえばどこにでもいる顔だ。自分は少し拍子抜けして、シシドの方を見た。
「もう帰ろうか」
シシドも頷いた。
自分はそれからしばらくして、夏休みの終わりだというのに風邪をひき、結局夏休み中に水族館を再び訪れることは叶わなかった。休みが明けたら明けたで、自分たちは勉強や運動会の練習やら秋祭りの準備らでかかりきりになり、教室の隅で囁かれていた人魚のうわさも次第に聞かなくなった。シシドにもあれから水族館に行ったかと聞いたが、行っていないという。あまり面白くもなかったし、ということで自分たちの意見は一致した。
それから特別なことは何もなかった。子供たちの間で人魚は祀り上げられることも、特段不気味に思われることもなく、ただ最初こそ少し特別で変わった存在ではあったが、すぐ当たり前の存在になった。性別があるのかないのかということや、生態を詳しく知ろうとする者もいなかった。時々、自分も暇つぶしに200円を払って水族館に行っては、ひらひらと手を振ったりしていた。人魚は時々目をぱちぱちさせてそれを見ているようだった。
そうこうしているうちに、水族館はいよいよ集客不足で閉鎖になった。自分は学校の掲示板の隅に貼られた「水族館廃館のお知らせ」を見ながら、人魚も他の魚と一緒に海に返されたのかな、と思った。
それから中学に進学すると、制服を買わされ、髪を指定の型に切らされ、体育は男女別になった。自分は一人称が「私」でも「俺」でもないからと揶揄われ、シシドも、隣のクラスで似たようなことで嘲笑されていた。成績がいいわけでも、身体能力に優れているわけでも、かといって学校や親に強く反抗するほど熱いわけでもない自分たちは、親近感を持ちながらも一緒にいると標的になる気がして、あまりつるまないようになった。
ある日、クラスの奴にまた揶揄われ、ついでに二、三発小突かれて帰る道すがら、いつもの海を横目でふと眺めた。五時のサイレンの割れた音が古いスピーカーから聞こえ、また静かになる。南に広がる海は西陽を受けて、オレンジ色から紫にきらきら光っていた。今後は足を止め、ぼんやり眺める。
ぱしゃ、と大きめの水音がした。誰か泳いでいるのかと思ったが、海開きには早い。
人魚だ。
あの時の人魚が、胸から上だけ水面から出していた。見たことがなかったら本当に、住民の誰かだと思っただろう。でも自分には人魚だとわかったし、実際そうだった。
人魚は、ひらひらと手を振った。取り立ててなんの感情もないが、敵意がないとこちらに示すように。かつて自分がそうしたように。自分もまた、小さく、でもはっきりと手を振り返した。
人魚が波間に姿を消してから、自分は夕暮れの校舎に走った。居残りさせられているシシドに会いたかったのだ。息急き切ったまま、ガラ、と引き戸を開けて、シシドに叫ぶ。
「人魚、まだいた!」
それを聞くと、シシドは一瞬目を丸くしたのち、
「ずっといたじゃねえか」
とにやりと笑った。