東大が学費値上げを一方的に検討している、もはや強行しようとしているのに強く抗議したい。教育は全ての人に無料で提供されるべきだし、そのために努力するのは国の義務、と信じている。ただでさえ一年間で50万円を超える決して安くはない金額なのに、東京大学という日本において最も権威的な大学が学費値上げをリードすることは、教育の権利の観点からはいうまでもなく、学問の深化のためにもマイナスになるだろう。
と、いうのはまあお題目といえばお題目でもあるのだが、今回の学費値上げ検討は、わたしにとって極めて個人的なことがらを思い出させた。それはわたしが東大大学院を修了したから、だけではない。大学院進学を決めた頃の家族との関係や環境、その頃に下されたうつ病の診断、フェミニズムとの出会い直し、そして現在にまで至るメンタルヘルスと、「知」の関係——いささか格好をつけて言えばだが——そのようなことが、久しぶりにぐるぐると想起されたのである。
あまり言いたくないことなのだが、わたしの両親は大学院への進学に反対だった。そこには彼ら曰く様々な理由があったのだが、わが家に大きな経済的な問題があったわけではない(よって、世帯年収を基準とする大方の奨学金制度は、わたしは使えなかった)。そして単純化して言えば、両親含む家族とのその軋轢も一因になり、わたしのメンタルヘルスの状態はみるみる悪くなってしまった。それこそ強行的に入試を受けて、第一志望の東大に合格したはいいものの、5月にはうつ病と診断され、後期からの休学を余儀なくされてしまった。それで、入学後に採択された博士課程までの奨学金プログラムからも外されることになった。
学費が安かったらな、と今でも思う。せめてわたしがアルバイトで稼げるくらいだったら、両親の意向をそこまで汲むこともなかったし、もしかしたら家を出たりもできて、ここまでひどい精神状態にはならなかったかもしれない。そうすれば、入学後に奨学金をもらいながら(ちなみにそれは世帯年収を基準としていない、数少ないタイプだった)研究を続けられたかもしれない。結局私は足掛け2年休学して、夢だった博士課程には進まずにアカデミアを去った。
ただ、あの時大学院を目指さなければよかった、とは絶対に思わない。なぜならその時のわたしは、当時参加していた学生の社会運動団体や院試のための勉強会で触れた「知」に、心の底から救われていたからだ。そして、その知に一番長く深く触れていることのできそうな退避場所のような場所が、わたしにとっては大学院だったからである。
例えば、マルクスの「労働」と「賃労働」の定義と両者の違いは、「企業で働かなければ生きてはいけない」という思い込みを覆し、家族の中でのケア労働の存在に目を向けさせた。ウルフ『自分ひとりの部屋』の再読は、初読時にはどこか他人事として捉えていたフェミニズムが、今ここにあるわたしの問題であると気づかせてくれた。とくに、うつで働かない頭で必死に読んだマーク・フィッシャーの『資本主義リアリズム』(2018 堀之内出版)の一文を、わたしは日記に必死の思いで書き写した。
>私は資本主義社会のなかで増加するストレス(および苦悩)の問題を新たな枠組みで考える必要があると主張したい。精神的苦痛の解消を個人の自己責任に帰するのではなく、つまり、過去30年にわたってストレスが大掛かりに個人の問題として私有化されてきた流れをそのまま引き受けるのではなく、私たちは次のような問いかけをしなければならない。これほど多くの、しかも多くの若い人が病気だという状態がどうして受け入れられるものとなったのか。(56)
>精神障害を個人の化学的・生物学的問題とみなすことで、資本主義は莫大な利点を得るのだ。(略)全ての精神障害が神経学的な仕組みによって発生することは論を俟たないが、だからと言ってこのことはその原因について解明するものではない。例えば、鬱病はセロトニン濃度の低下によって引き起こされるという主張が正しいとすれば、なぜ、特定の個人においてセロトニン濃度が低下するのかが説明されなければならない。そのためには、社会的・政治的な説明が求められるのである。(98-9)
わたしが抱えている問題は、わたしだけのものではない。社会の問題であり、わたしの自己責任ではない。その因果関係を知れば、原因を変えることができれば、この状況は打破できる。フェミニズムの「個人的なことは政治的なこと」という標語を、初めて理解できた気がした。
診断を受けてから、はや5年だ。目は文字の上を滑り、耳は音を受け付けなくなり、映像もじっと見ていられなくなる。集中力の低下。わたしは、アカデミアという学問の世界とは遠のいた。
しかし、ずっと、知に助けられていた。自死しなかったのはフィッシャーと出会ったからだ。世界は変えられると信じるようになったからだ。皮肉なことに、フィッシャー自身はうつで2017年に自死している。だとしても。かれ/らの知がわたしを救い続けている。
だからわたしは、知とは命を救うものだと、そうでなければならないと、固くかたく信じている。そう、わたしが東大の学費値上げに心から抗議するのは、お題目だけではない——何千万もの、途方に暮れていた「わたし」自身を少しでも救うためなのだ。